知らずに犯した罪は大きい

仙 頭   泰

 普通の常識では、「悪いと知らずに犯した罪は、悪いことだと知っていて犯した罪よりも軽い」と思われるものです。

 ところがこのような話があります。それは、お釈迦様の十大弟子の一人である阿難が或る日、お釈迦様に対して質問をしました。それは「知って犯した罪と、知らずに犯した罪と、どちらの罪が重い罪でしょうか」と、云うものでありました。その時に、お釈迦様は「知らずに犯した罪の方が重いのだよ」とお答えになりました。

 このお釈迦様の返事は予想外のものでした。普通の場合、人が過って罪を犯したときには「悪いと知らないでやったことですから御免なさい。許してください」と、弁解するのですが、それと反対の事なのであります。それで阿難は困惑して「何故でございますか」と尋ねました。

 するとお釈迦様は、焼け火箸を例えにして話をしてくださいました。
「お前は焼け火箸を、焼け火箸だと知って握るのと、知らずに握るのと、どちらが大火傷をすると思うかね」とお尋ねになりました。

 阿難は「それは勿論焼け火箸だと、知らないで握る人の方が大火傷をします」と答えました。つまり火箸を握るにしても、この火箸は焼け火箸であると知っている人は、例え人から「この火箸を握れ」と強要されても、チョッとふれてすぐに手を離す。ところが、焼け火箸と知らない人は「この火箸を握れ」と云われると「ハイ、ハイ」と返事をしてギュウと握って大火傷をすることになると云うわけです。

 お釈迦様は「その通りだよ。これは悪いことだ思いながらすることには、悪いと思うから遠慮がちに畏れながらするから被害は少ない。だが悪いと思わずに間違ったことをすると、どんな躊躇もしないで"善"だと思ってするから大きな被害をだすのだよ。

 つまり"熱い!"と思ってなお一層、焼け火箸をギュウと握り緊めて、大きな火傷をするのと同じことになるのだよ」とお話くださいました。今の日本では、強盗や殺人などの事件の悲惨さは、以前には考えられないことでした。人間をロボットと同じように考えるようになり、破壊することになんらの躊躇もなく、罪悪意識が無くなっているのです。大変危険な意識状態に今日本はあります。

 人生は一度きりだから、自分の好きなことを好きなようにすればよいのだと、考える人が増えています。自分の欲望を満たすためには、人に迷惑をかけても平気という精神状態です。世の中の指導者と云われる人の責任の取り方もまた、「自分は知らなかった。自分は悪くなかった」と公然と部下や他の人の責任にして、責任回避をする人が多くなっています。これらは、みな「人間なるものの実体」の確立喪失した状態であります。「人間」そのものの把握が間違っているのであります。

 この世で人を騙して金品を強奪したり、地位名誉財産を築いても、その人が今世で「うまくやった!」と自身が思い、或いは「うまくやっているな!」と社会の人から思われて、人生を要領よく泳いでいても、その人が為した人生の収支計算は正しく判断がくだされることを忘れてはならないのです。宇宙には神秘な力が働き、正直ものが損をして泣き寝入りをするようにはなっていないのです。

 特に世の中の指導者といわれる人の責任は大きく重いものであります。それは自分一人の間違いならよいですが、その人の属する、或いは指導する、国家或いは、団体の大勢の人々の運命までも道連れにするからであります。長たるものは、よくよく心すべきことであります。神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現であるという自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」という覚悟に徹して、徹頭徹尾生ききることだと生長の家では云うのです。

 われわれは輪廻転生をしながら、無限向上の道を歩み続けているのです。谷口雅春先生は、人生は魂を磨く学校であり、今世において何を勉強するかは、自分で決めてこの世に生まれてきていると教えてくださいました。自分の父母にしても、霊界から選択して母の胎内に宿り、この世に誕生してきているのです。

 不思議な縁ある者が集まって魂を磨き合う人生道場・家庭を構成しているのです。家庭の中でこそ、家族同士が感謝・合掌・礼拝すべきであります。谷口雅春先生は、「家庭において、褒められる人になれ!喜ばれる人になれ!」と教えておられます。われわれは、自分の家庭をあらゆるすばらしきものを産み出す拠点として、人生を明るく力強く歩み、魂の無限向上、研鑽を続けて行こうではありませんか。それだけでも立派にみ教えをひろめていると、谷口雅春先生は教えてくださいました。

 「新天新地の神示」には、常に神に呼びかけよと云う事が示されています。われわれが神に呼びかける時には、常に新しい力が、知恵が湧き出てきて、人生の重きくびきが軽くなり、悲しめる魂は慰みを得て、欣喜雀躍の世界に変わると示されています。今こそ、「汝一人ならば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。汝ら二人ならば、われを念じて吾と倶に三人なりと思へ」と、愛深く、神が呼びかけておられることを胆に銘じて、常に神と倶に人生を勇気をだして、夢と希望を持って歩み続けましょう。

 人生で誰も自分を理解してくれない、自分の胸の内を分ってくれないと思うような時があり、人生の壁にぶつかって自暴自棄になるような時もあるでしょう。そのような時でも、神様はつねに自分と倶にあり、護り導いておられるのです。有難いことです。

 だからこそ「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」と力強く自分自身に呼びかけて人生の諸問題を突破して行くのです。


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