唯 神 実 相 論

仙 頭   泰
 生長の家のみ教えは、「唯神実相論」という哲学であるとも教えられています。唯神とは、「唯、神のみが実在である」ということであり、神の造り給うた完全な存在のみが実在であるというであります。悪は本来ない、善なる神の存在のみを信ずる、つまり聖経「甘露の法雨」の『神』の項にある通り.『神があらわるれば、乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし』の世界を信ずるのであります。

 "善なる神"のみが本当に実在する。悪意のある神とか、色々と罰を当てたり、呪いをかけたり、腹をたてて復讐をする、そのような神を信ずる信仰から完全に脱却することが必要なのです。聖経に「天使」という言葉がありますが、これは神の愛の念波が人格化したものです。ですから一仏一切佛ということになります。これを忘れると、仏の名前の数だけ宗派が別々にあるように考え、対立的、派閥的に宗派的信仰がおきてくるのであります。聖経「天使の言葉」の中に「吾れを崇めよと云うには非ず‥‥‥」とあるのは、普遍的な神のことを指しているのです。

 本当に在るのは"実相の自分"だけである。現象の自分は、本来無いというのです。本当の人間は、金剛不壊の砕けないところの生命を持っているのであって、滅する如く見えているけれども、滅したこともないし、お釈迦さまが六年間も苦行されてやっと悟りを開いたという、そんなものではないぞというわけです。お釈迦さまは、久遠不滅の昔からずーっと悟りを開いて続いているところの自分であると説かれたのであります。つまり「我常にここに在りて滅せず」と法華経の如来寿量品にある言葉そのものであります。 

 モーゼが荒野で燃える柴のなかに神の声を聞いて、「あなたのお名前はなんですか」と尋ねましたら、その声は「I am that I am.」「我は在りてあるものなり」というものでした。すべての人間は、「われは何々である」と念ずる通りに現れるのであります。この「何々」のところに何を入れるかが問題であります。私たちは、「私は神である」と観ずるのであります。われ常にここに在りて滅せず、ここに神がある、如来がある、この境地につねに入っていることが本当の信仰であると教えられています。

 神の叡智が完全に啓発されることが大切であります。谷口雅春先生は、吾々の内には宇宙をつくつった神の叡智が宿っており、この叡智を人類からよび醒まして働かせ、正しい行為の選択をするようになるとき、地上に至福の世界が建設出来るものであると教えて下さいました。存在の実相を捉えるには、「実相覚」によって「一つの神」即ち在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力を認めねばなりません。このすばらしい自己を把むためにする修行が神想観であると示され、神想観こそ人類光明化の基礎であると教えて下さいました。

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