谷口雅春先生のお話の中に、正宗の銘刀についての話があります。完成された正宗の銘刀を人が拝見するときには、口に懐紙をくわえて人の息も吹きかけないように大事にして、鑑定をするそうです。そしてこの銘刀は多くの人々から珍重され、床の間に安置されるのであります。
このように人々から珍重され大切にされる銘刀も、はじめは単なる鉄の塊であり、鉄の棒にしかすぎなかったのであります。その鉄の棒が炉に入れられ、まっかに焼かれ、そして鎚で何回となく叩かれます。そして段々と刀の形になってきます。この時に鉄の棒が、炉で焼かれ、鎚で叩き鍛えられるのを嫌がって逃げていると、その鉄の棒は将来、正宗の銘刀になるべく約束されていても、それはたんなる鉄の棒として仕事場の隅に放り出されるのであります。
刀の形になれば、その次には荒い目の砥石でごしごしと磨かれます。火に焼かれ、鎚に叩かれる環境から解放されて、やれやれと一息ついていたら、今度はごしごしとみがかれて、これは堪らないとその場から逃避していれば、これまた未完成のまま放置されてしまいます。荒砥石の境遇を突破すれば、きめの細かい砥石で丁寧に磨かれてやがて美しい肌をした刀として現れてくるのであります。そして最後には光り輝く美しい文様のある本来の正宗の銘刀として完成して、人々の讃歎の声をうけるようになるのであります。
私たちは、いまこの三次元の現象世界に霊界から魂を磨くために天降ってきているののであります。私たちは人生学校で、それぞれ自分の魂を磨く課目を選んで人生勉強をしているのであります。自分の周りに起こる色々な出来事は自分の魂を磨いてくれる課目です。それを一つ一つ乗り越えることによって、上級のクラスへと進級して行くのです。
私たちが山に登るとき、低い丘でも頂上に登れば周囲の展望が開けて、美しい景観に悦びの声がでてきます。そこで今度はもっと高い山に登ろうと思います。そして高い峰を目指して進んでゆきます。ところが、途中で森の中に入り、地面はじめじめしてきますし、水が流れたり、苔が生えていたり、日陰が多くなったりして、段々と不安な気持ちになってきます。このような状態になりますと、暗い谷間を前に進むべきか、それとも退くべきかとして心が乱れます。この時に、谷間を乗り越える勇気をだして前進すれば、暗いじめじめした所を抜け出して更に高い峰にと、出るのです。そこから下界を眺めたときに、自分が不安になり如何に行動すべきか悩んだ谷間も見出し、些細なことにひっかかっていた自分を発見し反省して、心は達成感に満たされていちだんと爽快な気分に満たされるのであります。
人生で物事が行き詰まりのように見えても、困難の壁でかこまれどうにも動きがとれない様なときでも、上を見てご覧必ず開けているのだよと、谷口雅春先生は教えていて下さいます。自分が壁にぶつかって、動けないと思うときには、壁の前で棒をたて倒れた方に進め、そこでゆきづまればまた反対に方向転換して進めばよい。壁だからといってその前で「どうしよう、どうしよう」と悩んで止まってしまったのでは、何時までそこにいて問題の解決にはならない、壁に沿って動くことが必要だと教えて下さいました。生長の家は、自助努力です。内なる無限の力をだすことが大切です。谷口雅春先生の「無門関解釈」のご本のなかに、大力量の人が足があがらないで困っていると云う公案があります。どうしたのかと色々調べてみましたら、その素晴らしい力をもった人が、自分で足を挙げようとしなかっただけだった、というのであります。
「もっとも簡単にして本質的な神想観」と題してつぎのような言葉があります。
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」と呼びかけて、「私は無限の力に護られているんだ!人間、力は無限力だ」と数回心の中で一心に繰り返す。
またもう一つ紹介します。それは、「随時随処神想観」と題してあります。
休憩時間、仕事の合間など、随時随処に一分間でも、二、三分間でも、一日数回短い時間たびたび行う。瞑目して、静かに深呼吸しながら(手は合掌しても合掌しなくてもよろしい)「神のいのち流れ入る」と観じ、そして
「われ心を空しくして神の御心に従い奉る。神の御心をわれに顕し給え。」
右の如く、二、三回ないし数分間念じて、神様の御心を一心に心の耳をじっとすまして
聴く気持ちになるのです。
「心を空しくして」という事が必要なのです。そういう場合に、何か問題をひっさげて、「この問題をどうしたらよろしいか?」ということになりますと、これは一つの「我」が入って来る。そして自分の「かくありたい」という願いが、神様のお示しであるかのごとく出てくることがある。これでは神の御心ではなく、自分の潜在意識が出てくるだけですから何にもならない。零になって、神様のみ心に一心に聴き入る気持ちになる。
このように教えられています。
つぎにすばらしいのは、法華経にある「常不軽菩薩品」のことです。私たちは、谷口雅春先生から「常不軽菩薩行」として教えていただいています。常不軽とは「常に軽んぜず」と書いてあり、「われ常に軽んぜず」と常不軽菩薩は、常に如何なる人間を見てもたとい相手がどんなルンペンでも、やくざでも、強盗でも、殺人犯人であっても、みんなその人を仏の子として拝んだというのであります。どう云って拝んだかといいますと、「あなた様の実相は仏様でいらっしゃいます。当来必ず素晴らしい仏の実相が顕れる方でございます」と言って拝んだというのであります。
するとその相手の男は「なに、俺みたいなやくざの何処が仏の子だ。どこが仏だ。そんな馬鹿なことがあるものか。いい加減なでたらめを言って、この俺をいいくるめてごまかそうとする。けしからんやつだ」と言って、石を投げてその菩薩を傷つけようとする。すると常不軽菩薩は、投げてくる石のとどかぬ所まで行って、またそのやくざを拝んだというのであります。するとまた、そのやくざが「ふざけるな」といって石を投げる。するとまた石の届かぬところまで行って「あなた様は本来仏様でいらしゃいます。当来必ず仏の実相の顕れる方でございます」と言って拝まれたというのです。谷口雅春先生はこれが菩薩たる者の生き方だよと教えておられます。このすべての人間の実相として拝みきるということは、じつに積極的な徹底した信仰がなくてはできないことだと思います。相手に対して、これだけすればこうなるだろうという取引ではないのです・ただ拝みっぱなし、ただ与えっぱなし、しかもその奥には相手は「完全円満な神の子なんだ」と信じきる強さと、拝みきるたくましい実践力があるのです。
谷口雅春先生は「この全ての人間の実相を神であるとして拝むことによって、その実相の完全さを顕し、その完全さを確立する運動が、生長の家の人類光明化運動で、その実践者が聖使命菩薩である」とお説きくださいました。ともあれ人間の実相は霊的実在であって、この「肉体=物質」が人間であると見当違いをしてはならないのであります。
私たちは、自由、平等、人権と云い、また民主主義、世界平和と云い、政治、教育、社会、労働など色々な言葉で表現していますが、すべて人間がすることですから「本当の人間とはなにか」という人間なるものの実体の解明なしでは、それらの確立はないというのです。この3次元の現象界は「観ずる通りに現れる世界」でありますから、人間各自が如何なる観をもつか、集団として如何なる観を持つかということに、個人、集団の運命が決まってくるのであります。
私たちは「人間は霊的実在である。神の子・仏の子である。久遠生き通しの生命である」等々の言葉で表現される実相円満完全なる存在であることを常に忘れずに、自分自身に「神の子の何某さん、今日も一日元気でがんばろう。わが行く先はただ光のみ。健康、幸福、無限力!神の世界に悪はない。ただ善のみ、豊富のみ。うれしい!たのしい!よいことばかり!うれしい!たのしい!よいことばかり!」と、光明の言葉を繰り返し唱え自己のうちなる無限力を常に活用しましょう。
随処に主人公となり、人生を力強く開拓してゆきましょう。神は一切の対立を超え給い、しかもそれぞれの国民や民族をそれぞれに生かし給のであります。神においてのみ、全体を生かす実相に立ってのみ、平和共存があり得ると谷口雅春先生はといておられるのであります。私たちは、全世界にむかって、「愛と平和の精神波動」を放送する光明思念をもっと強力にして、世界の悲惨を緩和する運動も忘れずに続けてゆきましょう。
「世界平和の祈り」
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。 |