永 遠 生 命 の 死

仙 頭     泰

 

  「人間そのものの発見とその自覚」と題する谷口雅春先生の著書のなかに「永遠生命の死」と題する御文章があります。私たちは、人間は生き通しの生命と云いながらも、どうもその把握の仕方がしっかりと分らないと云う人の為にこの御文章を中心に学習します。

  『旧約聖書』の「創世記」にアダムとイヴの物語があります。その中の第二章の十五節から十七節に次の様に書いてあります。

  「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。

 谷口雅春先生は、これが聖書にあらわれている最初の「死」の語であると云われます。パウロは「罪の値は死なり」と言っていますが、ここに於ける「死」というのは、決して肉体の死でもなく、霊魂が肉体から分離することでもないと述べておられます。そして聖書における「死」というのは、人間が、そのすべての幸福と、永遠の生命の源泉であるところの神とから、離れることの意味であると説明しておられます。

 日本語の幸福という語は、「サキハエ」とも云って、神なる本源から先に延長してきたものが、人間の本当の幸福であるということを、意味しています。つまり神と繋がっているときは、永遠の幸福を得る事ができることを意味しているのであります。

 さて、アダムとイヴですが、智慧の樹の果実を食べてしまいました。ところが、この二人は肉体が死ななかったのです。そして結果として、アダムとイヴは、エデンの園から追放されたのです。

 このことで、神は方便に嘘をついたのであると説明する人もあります。しかしこの場合の「死」とは「永遠の楽園」との隔絶、「永遠の生命」との隔絶、そして「永遠の幸福」からの隔絶を意味していると、谷口雅春先生は教えておられます。

 エデンの園を追放されたアダムとイヴはこの後、永遠の幸福から隔絶して、「苦しみて子を産み、苦しみて食を得る」ことになるのであります。パウロは「罪の値は死なり」と云いましたが、「罪」とは何かと言うことです。生長の家では、人間の本来の神性をツツミ隠して、表現しないことを、それを罪と云うのだと教えています。ですから「罪」とは「神なる生命の本源からの隔絶」した状態と云うことになり、これ即ち「死」ということになります。

 谷口雅春先生は「死より生命に移る道」と題して、次のように述べておられます。
 キリストは『わが言葉をきき、而してわれを遣わし給いし者を信ずる人は永遠の生命をもち、かつ審判(サバキ)に至らず、死より生命に入れるなり』と言っています。『われを遣わし給いし者』というのは神であります。神との連関ができたならば、人は神の永遠の生命を得て、死にいたることがなくなるのであります。もっともこれは生命の永生(エイセイ)でありまして、肉体の永遠継続ではないのであります。

 肉体は人間そのものではなく、地上におけるある期間の使命を遂行するための道具に過ぎないのであります。地上での使命遂行の期間を終わると、内部の生命が、その皮袋(肉体)を補修しなくなりますから、肉体の摩滅消耗は補修せられず、病気のような状態をあらわして、「人間」は「肉体」から分離し、肉体と云う皮袋は化学的分解をはじめるのであります。「人間そのもの」は分解するのではないのであります。

 「われを遣わしし者を信ずる人は永遠の生命をもち‥‥死より生命に入れるなり」となるのであります。霊魂は、肉体と分離した後、キリストの再臨まで霊界で眠っているという人もいますが、最近では数多くの臨死体験者の記録が集められ研究されて、その結果、霊界に移行した霊魂は、そこでの生活はしているのであります。
 
 三次元の現世より、幽界にまづ移行することは聖経「天使の言葉」の中に、「肉体を去りたる『念』は、その念の力にてなお一つの個性を持続し、幽界に於いて生活をつづけん」とあります。

 さらに次のように書いてあります。
 「汝らの霊魂と称するもの是にして、『念』の浄まるに従ってそれに相応わしき高き霊界に入り、『念』の浄まらざるものは、それに相応しき環境を『念』の力にて仮作し、その環境にいて苦しまん」とあります。

 私達は、生き通しの生命である限り、このように肉体を脱した後は、霊の世界(広い意味での霊界です。霊の世界の区別は仏教や心霊研究者等により区分の仕方があります)にて生活をするのであります。霊の世界は、肉体人間の世界よりも一層ハッキリと念が具象化するのであります。ですから、「正しい念」を正しく支配することを、今この三次元の世界に居るときに、学ぶことは永遠の幸福の道を歩む前提になるのであります。

 私達にとって大切なことは、今世において自己の本性を明確に自覚することです。神の実在をハッキリと理解することです。そして私達は、輪廻転生しながら無限向上の道を歩み続けるものであることを知ることです。

 エデンの園からの追放は、アダムとイヴが霊的自覚を喪失し、唯物的な感覚の世界に落ち込んだ結果であります。現代の多くの人々は、人間の五官の感覚のみを信じ、それに頼りきって生活をしています。これではエデンの園から追放されたままの状態が連続した生活であります。

 人間の霊性を覆い隠して、肉体の感覚のみでの生活は、「神性隠蔽」ということになります。エデンの園即ち「永遠生命の国」に住むためには、「観の転換」がなされなくてはなりません。三六〇度の観の転換です。大切なものは、物質的人間観を去って、霊的人間観への転換であります。

 物質的人間観を持つ限り、その生活は「汝は一生のあいだ面に汗して食を得ん」といった状態となり、疑心暗鬼の状態となり、この地上生活は「苦しみの場」になるのであります。国際的には国家間の対立抗争につながるのであります。

 霊的人間観に復帰して、人類全体が、自己の霊的実在に目覚めることは、個人および人類全体の永遠の幸福につながる素晴らしい道であります。
                               (終わり)



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