真理は古いと新しいとを超える

仙 頭    泰

 

 谷口雅春先生は「講義をする人と講義を聴く人に就いて想う」と題してお話をされたことがありました。それは宗教の話を聴聞に来ていながら、そんな話は古いという人がいます。こう云う人は、目新しいことだけが真理であり、価値があると思っている人であり、感覚的に新しいものだけを追求するところには、宗教も道徳も存在しないのであります。

 谷口雅春先生は「宗教家は単に話の新規を追ってはならないのである。また宗教の教えを聞こうとする人も、新しい話を聞きたいと思ってはならないのである。新しい話をききたければ寄席に行って、漫才や落語をきくがよいのである。宗教家に求むべきものは話の斬新さではないのである。」と語られ、宗教家に求むべきものは次のものであると述べておられます。

 それは、語る人の「悟り」の深さであり、その人の「信」の深さでなければならないのです。語る人の「悟り」と「信仰」とが、話を聞いているうちに以心伝心、話を聴く人に伝わって来て、自然に聴聞者の迷いが除かれ、その影響が肉体の健康状態や、生活の変化にも現われて来るようでなければならないのであります。

 要するに「話の新規が宗教の値打ちではない、以心伝心、悟りを伝え、信仰を深める迫力がその宗教家の講話のなかにあるかないかが問題なのである。」と谷口雅春先生は言われるのであります。生長の家の宗教の法話や、その教えの書籍は、実際にゆがめる家庭を正しくし、衰えた健康状態を快復し、難治の病気を自然消滅せしめるだけの迫力があるのです。それは新しいとか古いとかを超越した「今生きている真理」であるからであります。

 禅宗に公案というものがありますが、これは単なる「悟りに関するクイズ」というようなものではありません。公案は宗教の先輩祖師たちが如何なる時に如何に行動し、如何に問答したかの足跡であって修行の規範であり、これを基本として後輩たちが自己を脚下照顧して悟りを深める基準として努力をしたものであります。

 それは確かに先輩祖師の言行であるから「古い」ことは云うまでもありません。しかし真に味えば、興味津々として新しい味わいが湧き出てくるのであります。それを味わうことを知らないで、講師が古い言行ばかり持ち出して話をしているから「あの講師の話は古い」と批評することは、要するに自分自身の浅薄さを暴露しているに過ぎないのであります。

 このことは単に宗教のことだけではありません。芸術でも、真に深い「美」を内に蔵しているものは、何回それを鑑賞していても古いことはないのであります。「美」は常に新鮮にして新しいのであります。谷口雅春先生が歌舞伎の「勧進帳」の例え話をしておられます。

 毎年同じ出し物で「勧進帳」が行われても、観客はやはりそれを喜んで観にゆくのであります。それは演出する役者に、観客をひきつける演技力があることはすばらしいことであり、また毎度「勧進帳」を鑑賞して常に新しい美を見出して飽きない観客もまた偉いというのであります。話の筋の面白さを観に行ったり、聴きに行ったりするだけならば、「勧進帳」などは一度観れば、「それでわかった。もうよろしい」ということになるでしょう。しかし芸術を味合うということは、そんなものではないのであります。

 ところで宗教の話をききに行くのに、信仰体験の筋の面白さや、時々話の中にはいるユーモアの楽しさを聴きに行く人もいます。しかし信仰体験談は、禅宗でいう「公案」と同じことで先輩求道者の悟りに到る言行の足跡であります。聴聞者は、その足跡をちょっとでも自分の悟りや信仰の心境を高める足場にしようと思って、講師がその話の何処に力点を置き、何処に話のアクセントを加え、如何にそれを解説するかを、まばたきもせずに傾聴するような態度が大切になるのであります。

 無限にある大海の水でも、汲み取る容器の大きさに従って、受け取る水の量が決まってくるのです。お寺の梵鐘でも、強く打てば大きく響き、軽く打てば小さく響くのであります。併し、一方講師は黙っていても聴衆の信仰を高め得るほどに自己自身の心境を高めることに心がけなければなりません。普通の人が道を間違えた説教をすればそれは、その人ひとりの間違いで影響は少なくてすみますが、指導者の立場にある人が、道を間違えて説教するときは、大勢の人を道連れにして間違いの方向に歩むのでありますから、その責任は重大なものがあります。それだけに、道を説く立場にある人、また指導者という立場にある人は、常に自己反省・自己研鑽を忘れてはならないのであります。

 谷口雅春先生は次のような話をしてくださいました。「維摩の一黙、雷の如し」と維摩の悟りが評されているからと云って、講師の話し方の下手なのは名誉なことではないのです。講師の折角の悟りも、聴衆の心境の高い人にのみ分かって、聴衆の心境が悪くて新しい話や巧妙な話術のみに憧れて来るような人には一向にわからないような話をするのでも困ったものです。

 大学の工学部の教授が、ある問題で市民講座を開いて話をしました。専門的な内容の講義でしたが、受講生の市民にもその話の内容がよく理解されました。ところが別の易しい内容の講義を若い助教授の方が担当して話をしました。ところがこの方は専門用語の羅列で受講生の市民にはチンプンカンで話の内容の把握すらできなかったと云うのです。あとでこの市民講座の反省会で言われたことは、講義をする人自身がその該博な知識と、その緻密で十分な理解力をもっていれば、専門家でない人にも理解できるように話を進めることができるが、自分の専門のことでも生齧りの知識で、習い覚えた専門用語の羅列での話しかできないようでは、一般の人に対して理解を得るような内容の仕方はむつかしいという結論でありました。

 そこで講師たるものは話術もみがかねばならぬし、勉強をして内容も充実して感銘をあたえるように努力することが必要であります。しかし宗教に関する話は、悟りを離れて、単なる話術として独立して存在するものではないのです。話術だけが独走してしまって中味がからっぽになるよりは、話術が下手でも中味が充実している方がまだましであるということになります。

 谷口雅春先生のお供をさせていただき、海外旅行をした時、先生が黙って何もお話をなさらなくても、ただ「居る」ということだけで、谷口雅春先生の周囲が光明化されて、雰囲気が変わるのであります。この先生のお姿に接した時に「無為にして化する」ということがどんなに素晴らしい威力を発揮するものであるかを実感したものであります。谷口雅春先生は、神よりこの地上に神の御言葉を人類に伝えるご使命をもって生誕された偉大なる霊的指導者でありました。谷口雅春先生が帰天された今日、残された御著書は神理の宝庫であります。

 「読書百遍・意自ら通じる」という言葉があります。また「実相と現象」という御本の「はしがき」は谷口雅春先生が帰天される二十日前のご文章であります。この「はしがき」の締めくくりとして、「諸賢が本著に親しまれることにより、"聖なる求め"を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。」と認めておられるのであります。

 谷口雅春先生は、真理の体得について私たちに「神に代り切に切に望むものである。」と残されたお言葉を、肝に銘じて精進して行こうではありませんか。また、「真理は汝を自由ならしめん」「われを信ずる者は、われよりも大いなる業をなさん」、この短い言葉の持つ不思議な力を忘れることなく、人類の迷妄を打破し、「観の転換」を行い、実相世界の地上展開を進めてゆきましょう。
                         (終わり)



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