現象と実相との関係
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生長の家で教義を学習するときに大切なことは、「現象と実相」ということの理解であります。ここに谷口雅春先生のお示しくださいました要点を勉強することに致します。普通の常識から観れば、人間とは物質的塊のこの肉体をいうのであります。肉体は物質の塊であると観えるかもしれませんが、それはそのように現われて見える象(スガタ)であり、「現象」なのであります。 人間の肉体はつねに新陳代謝して変化をするのであります。「変化する」ということは、"前のもの"が消えて別のものが現われるということであります。"前のもの"が消えるというのは、"現われている象(スガタ)"のことであって、"本当にある"のではないのであります。 人間の"本当の相(スガタ)"そのものは、現われている象(スガタ)の奥に、肉眼には見えないけれど、本当に在るところの"霊的なもの"であります。ですから、現象は常に変わっても、その「本当に在る"霊的なもの"」は変らない"常住"のものであります。この常住のものを"実相"というのであります。 例えば、肉体は現象であるから赤ん坊の時から年月がたつに従っていろいろの姿の段階をへて、最後には老人の姿となるのであります。しかし、私たちが「私」といっているもの、「彼」と称しているものは、霊的実在であって、肉体がどのように変化しようとも、その奥にあって"変化"しないものであります。 ここで「変化」について考えてみます。「AがBに変化をする」ということは、Aと全く関係のない全然"別のもの"があらわれてくることではなく、眼で見える形がどのようにあらわれていても、AとBの両者のあらわれているその姿の奥に、共通する何物かがあるからこそ、AがBに変化をしたといえるのであります。 「変化」の奥にある「変化しないもの」は「物質」ではなく、霊的な存在であります。霊的存在ということは、「神の心の内に思い浮かべられたる想念」であり、「理念」であります。この「理念」、これが「不変なるもの」の実体であります。これは永遠不滅の実在であります。 理念には色々な種類がありますが、例えば数学での"2×2=4"というのは、数学上の理念であって永遠に不滅の真理であります。過去も現在も未来も、そしてどこに行こうとも、普遍的に存在するものであります。 人間も肉体という現象から見るならば、常に変化する存在でありますが「神の肖像(ミスガタ)」としてつくられた実在の人間は理念であって、それは丁度"2×2=4"が常住不変なるごとくに変化することはないのであります。 釈迦は涅槃経の中で「自分は死ぬのではない。本当の自分は仏身であり、如来身であり、金剛身であり、不壊身であり、非雑食身(ヒゾウジキシン)である」といわれ、本当の自分は実相の世界にある理念身であるといわれたのであります。 そこで姑と嫁といった人間関係を考えてみます。前に述べました常住不変の理念の世界(実相世界)に於いては、肉体的な人間関係における"姑"と"嫁"の関係のように「彼女は夫の母であって、私の母ではない」といった奇妙な関係は存在しないのです。 人間を肉体とする立場で人間関係を見るから、「彼女は私の肉体から生まれた娘ではない。私は姑で、彼女は嫁だ」というような"迷い心"が起こるのであります・ 私たちが「肉から生まれた人間」という現象的な方面を見ないで、「理念としての人間」のみを見るときには、そこには「父と子」または「母と子」の関係だけがあり、現象では自分の肉体が生まない嫁であっても、即ち姑と嫁の関係であっても、"母"なる理念と"娘"の理念とが、今ここに現実化しているのであるから、矢張り真実の「母と娘」があるのみであります。 この様に、お互いに相手の神の子なる実相を観て、本来"仲のよい"「母と子」を見出して拝み合う時、その家庭生活は光明化されて、天国浄土の家庭が実現することになるのです。 本当の自分の実相は、今も厳然として実相の世界(エデンの楽園)に存在しているのです。それは今でも天地とともに生きと通してきましたし、これからも天地と共に生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在であり、アブラハムの生まれる前より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。 このすばらしき「本当の自己」を、五官を超越し、第六感さえも超越して、実相覚によってつかめばよいのです。そのためにも必要なことは、毎日一定の時間をきめて、神想観の実修を確実にすることであると、谷口雅春先生は教えて下さいました。 谷口雅春先生の御愛念に心より深く感謝いたします。 (終わり) |