新たに目覚める

仙頭  泰

 

 私たちの毎日の生活は、五官を通して物質界と連関して生活をしています。しかし、これが私たちの生命のすべてでないことに気が付かねばなりません。

 私たちは目に視えない不可知の世界との連関を持ちながら毎日の生活を送っているのであります。谷口雅春先生は「目に視える物質界の生活は、不可視の世界の大いなる力に支えられていて、不可視の世界の一部を成している」と教えておられます。私たちは、内部の不可視の力が常に私たちの肉体の消耗を補充し、また損傷を修復し、生理作用を内部から調節しつつあることに気が付かなければなりません。

 谷口雅春先生は、この不可視の力は、人間に宿っている"神の力"であり"人間の生命力"であると教えておられます。私たちの肉体は、人間そのものではないのであって、この生命力がそれ自身を表現するための器官であり、道具であり、媒介であるにしか過ぎないのであります。

 本当の人間は、この肉体ではなくして、霊的実在であり、神の最高の自己実現であります。久遠に生き通しの生命であり、「神」そのものであります。「至上者の自覚の神示」には、「人即ち神であるという真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此の世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。」と示されてあります。

 聖経「甘露の法雨」の「人間」の項には、本当の人間について詳細に啓示されています。即ち、神は光源であり、人間は光源から輝き出たところの光線であり、光源と光線とが一体であるように、神と人間とは本来一体のものであります。

 谷口雅春先生は「私たちの生命の中には"神聖なる求め"という"聖なる追及"が宿っている。それは自分の生命の本源に対する憧れであり、郷愁である。私たちの宗教心がそれである」と教えておられます。

 私たちは靜に坐して、肉体の眼を閉じて、心を澄まして、心の眼をひらいて生命の本源に呼びかけるのです。「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と低い声で靜に幾回も繰り返し唱えるのです。機会のあるごとに、この様に唱えて、"聖なる求め"を続けるのであります。

 毎日、折あるごとに、"聖なる求め"を続けていると、ついには自己の生命の内の内なる不可視の力に直接対面する時が来るのであります。谷口雅春先生は「この不可視の力に抗(サカラ)ってはならない。この不可視の力に導かれて進むとき、一切のものは成就するのである」と教えておられるのであります。

 生長の家では「観の転換とその確立」ということを言っています。私たちの人生は、観ずる通りに現れてきますから、私たちが如何なる「観」をもつかということによって、色々な人生の形があらわれてくるのであります。生長の家では「観の転換」の中でも、一番さきにすべきものは、「人間観」であると説くのであります。私たちが徹底的に変わらねばならないのは「人間観」で、自分自身が「霊的実在である」との目覚めなのであります。

 ここで、谷口雅春先生が述べられた御文章を「真理」第九巻・三百五十一頁より抜粋してみます。
「人間は"霊"である。"霊"が物質世界にある働きをせんがために、その直接道具として作ったのが肉体であり、"霊"が物質世界に対処せんがための"眼"となり、レーダーとなるために作ったのが精神である。

 肉体は霊の従僕となり、道具としての役目をはたさんがために忠実であるのが、肉体の使命である。時として、人間は誤って"肉体"を人間自身だと思い誤り、"霊"がアベコベに"肉体"の欲望に奉仕しようとする。そして"自分がしたいことをするのが何が悪い"などと放言する。

 人間が霊であると知るとき人間は始めて行動に倫理性を獲るのである。人間は"霊"である。"霊"こそ人間であり、永遠に神性なる"神の生命"の受胎である。肉体はそこに"霊"が受胎したところの"神の宮"に過ぎない。"宮"も大切であり、清潔に保存しなければならないが、"霊"は一層大切である。

" 霊"は"神の生命"であるから永遠のものである。それは不滅である。神聖である。それが人間である。その"人間"が"肉体"を道具として使う。その道具を動かすための媒介となるようなエネルギーが"精神"である。

" 霊"は"精神"を媒介として、自分の肉体を目的通りに操作するのである。ところがその媒介になる"精神"が狂ったり、正しくなかったりすると肉体は"霊"の目的意志通り動かなくなる。"精神"が"霊"の媒介であるという使命を忘れて、肉体の奴隷になったりすることがある。人間の主体をまづ自覚せよである。」

 谷口雅春先生は更に次のように述べておられます。
 「完全なる幸福と健康とは、人間の主体であるところの"霊"と、その道具であるところ"肉体"とが、"精神"を媒介として、完全にその目的と行動とが一致したときに得られるのである。

" 霊"のみが"本当の人間"であり、霊のみが活力の源泉であるから、私たちは常に"霊"から活力を汲むことが必要である。それは常に神想観して、『神より無限の生命力流れ入る』ということを想念しなければならない。

 人間の生きるのは、単なる物質エネルギーの循環だけでは不可能であるから、霊的エネルギーの補給を大生命に仰ぐようにする必要があるのである。そのためには、大生命の霊的波動(愛)と、波長を合わす生活を送らなければならない。」

 私たちにとって必要なことは、つねに大生命の本源に波長を合わせることであります。そこから、肉体の物質的力や、脳髄から出る精神的力などが、とても及ぶことの出来ない、不可知の不可思議の力が現れてくるのであります。  

                             (終わり・85−2)


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