汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ

仙頭  泰

 

 「生命の実相」第一巻に「生命の実相の自性円満完全(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて神癒となります」と書いてあります。

 生長の家は人類の思想中よりその転倒妄想を去らしめて、人類生活の全面を光明化するために出現したのであり、たんに病気治療のみの目的で出現したのではありません。

 生長の家では宗教というものは、「個」の生命を宇宙の大生命に合一せしめるので、その結果病気も自然と消えてしまうのであって、宗教家が病気を治すのではないことを教えています。生長の家では、常に「三六〇度の観の転回」ということを云うのであります。

 イエスは私たちに「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と教えています。また、イエスは私たちに「わたしを信ずる者は、またわたしのしている業(わざ)をするであろう。そればかりか、もっと大きい業をするであろう」と断言しておられるのであります。

 ある人が病気になり、医師の治療を受けても良くならず、苦痛が増悪していくようでした。その時に気をまぎらわせるために、聖書を手にして、めくっていました。その時、創世記の第一章、27節〜31節が眼にとまりました。その時にこの人の頭にひらめいたものは、本当の人間は神の像(かたち)の如く完全に創造(つく)られていて、神がひとたび完全に造り給うた以上は永遠に完全であると云うことでした。

 この時、彼は神の像(かたち)の如く人を完全に創造(つく)り、凡て善しと神みづからが宣言し給うた人間を、不完全であり、病気であると考えたり、神の創造に間違いがあるなどと考えた自分が、どんなにか不遜な自分であったかと気がついたのであります。

 彼はすぐに「神様すみません。神様の創造は完全なのでございました。私を完全に造り給うてありがとうございます」と涙ながらに心にとなえました。そして気がついた時には、癒されていました。

 谷口雅春先生は、神に対する本当の謙遜と悔い改め、そして絶対の信と感謝とが、彼の心の中のストレスを中和して病気を治したのであると教えて下さいました。生長の家では、人間は皆"神の子"であって実相は完全円満であり、神の万徳を継承しているのであるから、貧乏も病気も災難もないと教えています。

 私たちに不幸・災難・病苦等があらわれるのは、それは光明遍満の青空が本来あるのに、"迷いの雲"があらわれて一時的に光明の青空を見ないからなのです。だからその迷いの雲を吹き払えばよいのです。その迷いの雲を吹き払うのは、「実相を観ずる」ことと、「甘露の法雨」を読誦することがよいのであります。

 「完成の燈台の神示」の中に「『生長の家』 は今かの黙示録が予言した 『完成の燈台』として人類の前に臨むのである。此の燈台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』の三暗黒を消尽するのである」と示されているのであります。

 そして真理の光により、すべての迷いが消え、その結果「罪」「病」「死」は消えるのであります。神示は次のように結んであります。
 「疑わずに吾が光を受けよ。われは『完成の燈台(ななつのとうだい)』に灯を点ずるものである」と。

 私たちのなすべきことは、人間の実相は「神の子」であり、「神の子」は本来健全である実相は観ずればあらわれるので、「観ずること」であります。谷口雅春先生は「靜に、力まず、その完全なる実相の存在することを堅く信ずる心をもって、その神の子の完全なる実相を瞑視するだけでよい」教えておられます。

 イエスは「われみずからにて何事をも為し得ず、天の父われにいまして御業を為さしめ給うのである」と言っておられるのであります。私たちは、常に「招神歌」を誦え神と伴なる自覚を深めましょう。

 私たちは一切皆善の実相世界のみを、常に観ずることが大切です。「実相を観ずる歌」は、折りあるごとに歌ってみて下さい。必ず不思議な力が湧きあがるのを感じられることでしょう。神が完全であり、一切の創造は完全であるから、不完全なる現象の存在を否定し去り、不完全なものの存在しないことを信じて、ただ完全円満なる実相の世界のみを観ずるのであります。

 谷口雅春先生は著書「静思集」の中でつぎのように述べておられます。
 「常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。神を忘れた日はどんなに寂しいであろう。神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。神は渾ての渾てであるから、神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

 みづからを顧みよ。腹の立っているとき其の人は神を忘れている。悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。つぶやいているとき其の人は神を忘れている。他を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。失意にいるとき其の人は神を忘れている。愛深き神を想い出せ。汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も立ちどころに消えるであろう。」
 
 このことは私たちに、生活体験として得られるのであります。そしてまた、大切なことは私たちの生活には、原因結果の法則が支配していますから、「求める」ばかりで、「与える」ことを忘れてはならないということで「ケチな心」は「ケチな心」を招くことになり、自分自身の人生を狭くする結果になります。
 この世は法則の世界であって「与える」と云う原因なしに「与えられる」という結果はあり得ないのであります。現象界を善くするには、言葉と念(おもい)を善くすることです。万物は言葉と念の通りなります。三界は唯心の所現であり、「類は類を招ぶ」の真理を伴うのであります。

 自分の周囲に展開する姿は、自分の心と類似の姿であります。すべてのことを自分の魂を磨く材料として、ただ有難く受けたときには、業は形にあらわれ、それは蒸気の圧力がピストンの運動となって消える如く、消えるのであります。そして本当に有難くならせて頂くのであります。 

                           (終わり・210−6)



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