当り前の人間のほかに神の子はない
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「当り前の人間のほかに神の子はない」、この言葉は「自然流通の神示」の中にでてくることばであります。この神示には、「生長の家」は奇跡を見せるところではなくて、奇跡を無くするところであると、示されています。 つまり、すべての人類に、真理を悟らしめて、異常現象を無くして、当り前のままで喜ぶことの出来る人間にならしめる処− それが生長の家だというのであります。ここで皆さんに「自然流通の神示」を拝読していただきます。谷口雅春先生は、「神示講義」のなかで詳しく説明しておられます。それを引用いたします。 私達は、当たり前が喜べる様になった時、その人の不幸というものは拭いとられことになります。そこで大切なことは、悟りとは観念の遊戯ではなくて生活実践であると云うことです。毎日の生活の中で、御教えを行ずるということです。実相を直視した生活をすることであります。 子供の教育でも、「この子供は悪い奴だから、なんとか方法を講じて、よくしなければならない」と、人間智恵を出してしますと、かえってその子供は反抗して悪くなってしまう。この逆に、「そのままそこに、神の生命の子供がいるのだ」と分かって、その子供の完全な、神なる実相をジイーツと心の眼でみつめて拝めば、そこに「実相の催し」と云うのが出てきて、その内部的催しに私達が支配されて行動する時、すべての問題は自然に、円満に解決することになるのであります。 次のような事もあります。毎日乗って通勤している電車でも、それが事故を起こすとき、何となく乗りたくなくなって、その電車に乗れないような都合が自然と出て来て、衝突事故から自然に遠ざかると云うようなことです。 谷口雅春先生は次のようなことも述べておられます。往来に沢山のごみが落ちて散らかっているのは、見苦しいものであります。誰も掃除をしていません。「往来」は無言の声で我らに呼びかけている。「だいぶ汚れましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。 「よし来た。私が掃除をしよう」と、素直に、その呼びかけに応じたら、もうそこに自分の職業があるのであります。ただ、その職業は金をくれないだけであります。失業者の多くは、「金をくれないから働かない」と思っているから職業がないのであります。彼等は「金」という条件によって自分が縛られておるから「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら仕事をしないのであります。 「そのままの心」になれば、自然に汚いものを綺麗にしたいと云う衝動が起こって来る。そこに生命自身の自由自在の働きが出てきて、運が開けるのであります。自然科学にはエネルギー不滅の法則というのがあります。倫理の世界にも「価値を支払っただけのものを得る」という法則があり、働き少なくして多くを得ようと思っても駄目であります。 すべての人間は、神の子でありますから、裕なのが実相でありまして、貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。人間の生活にとって必要なものは、必要に従って流通無限に流れ入って来るのが当たり前なのであります。その人の潜在意識の底に、「自分は貧乏でありたい」という考えがありますと、裕になれないのであります。 谷口雅春先生が青年時代には、裕になることは、聖者の生活ではないと信じて居られました。ですから、当時の先生は「ゆかた」一枚に縄の帯をしめ、竹の皮の草履を履いて、柳行季のハンドバック一つを持っておられました。それには歯ブラシとタオルだけが入っていて、歯磨き粉もない。歯は食塩で磨いておられました。そして「私の全財産はただこれだけである、私は誰からも搾取しないのである」と、このように思っておられたそうです。 谷口雅春先生は、このことで清らかではあるが「人間は本来神の子であって裕なのが実相だ」という事を知らない間違いの考えをもっていたと述べておられます。みずから富たいと思う人は、「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」と云う自覚を、潜在意識に持つ事から始めなくてはなりません。人間は神の子ですから自己縮小してケチな心をもったらいけません。自分が富めないのを資本主義の欠陥から来たのだなどと、責任を他に転嫁すると、自己内在の力は現れないのであります。 運の好い人は、心明るく、計画するところが大きく、心の中に豊なるものを持っているから、その豊なる心の反映として、豊なる経済状態が現れて来るのであります。何よりも大切なのは「神の子」の自覚であり、自分は神の子であるから、神の持ちたまえる無限の富の相続者であると云う豊かなる信念を持つことが必要なのであります。 人間は自分で自分を、自己限定してはならないのです。また宇宙の富を有限だと限定してはならないのです。科学者は、自分の発見によって「無限のもの」が出てくるという想定のもとに研究をすすめているのであって、「信じたものが出て来た」のですから素晴らしいのであります。 この「自然流通の神示」にもありますが、人間は他から同情されたいと思うような心を持っていると、その人は豊かにもなれないし、大きく伸びることは出来ないのであります。自己憐憫は、自己虐待に繋がります。 「持たずして有(モ)つ」− こういう持ち方が一番いいのであります。「自分のもの」として執着しないから、奪い合いも、争いも何もいらないのであります。つまり仏教で云う「無所有」であります。何物も自分のものはない。すべてこれ、神さまのものであります。人生も神様のもの、この身体も神様のもの、この心も神様のもの、この生命も神様のもの、ありとあらゆるものすべて神様のものでないものはないのであります。 私達が、神様の生命の中に融け込んで、法そのままに自然に動いて行くとき、そこに本当の流通無限の自由自在の生活と云うものが現れて来るのであります。神示の中に、人間が生命の実相を悟って病気が治るのは、病念と云う異常現象が止んで、人間が本来の自然に還るからであると示されています。人間は健康なのが当たり前なのであります。 現代では、精神科学の研究がすすんで、肉体と精神との関係が詳しく分かっています。腹を立てれば、その結果として、身体の筋肉が固くなります。これは腹立つ感情が、直接または間接に、副腎を刺激してアドレナリンというホルモンを分泌し、それがこの皮膚や血管や筋肉を収縮せしめ、内臓の平滑筋をダラリとさせて、消化不良を起こすようになるというのであります。病気は、心の歪みであると云うわけです。 私達は、当たり前の人間が神の子であることを、もう一度確認して、真理を生活の中で行じきることに徹底いたしましょう。その生活の尺度は「生長の家信徒行持要目」であります。この尺度により、反省し伸展して行きましょう。 (終わり・223-1) |