天国について
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天国とは何処にあるのでしょうか。それは私たちが死んだのち(勿論ここでは肉体の死のことです)に、私たちの霊魂が行くことのできる世界のことでしょうか。天国とは何でしょうか。 今回は谷口雅春先生の御文章と聖書を中心として学習いたします。聖書の中で、イエスはよく「種(たね)」をもちいて譬えを示されることが多いのであります。まづ「マタイ伝十三章・24〜30」を読んでみましょう。 「また、ほかの譬を彼らに示して言われた『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと同時に毒麦もあらわれてきた。 僕(シモベ)たちがきて、家の主人に言った。『ご主人様、畑におまきになったのは良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った。『では行って、それを抜き集めましょうか』 彼は言った『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者にまず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』 そこで私達が、自分の畑に良い種をまけば、必ず良い実を得ることが出来るのでありますから、天国とは常に善のみの素晴らしい世界であります。ところが現象世界においては、私達が自分の心の畑の中に毒麦のタネ、即ち本来ありもしない不幸、災難、貧困等不完全なものをありとする心の迷いの種をまくので、現象面に毒麦がそだってくるわけであります。 さて、ここに毒麦がはえたのは「それは敵のわざだ」とあります。これは本来人間は円満完全な霊的実在でありながら、迷い(敵)によってカバーをしてしまうので、そこに仮に不完全な状態(毒麦)があらわれて見えるわけです。 谷口雅春先生は、私たちにつねに神性佛性を行動に表現することを教えておられます。 「霊魂進化の神示」の中に人生の目的について、つぎのように示されています。 「『神の子』なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは、現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である」と。 私達の自己の神性佛性をあらわすには、愛行の言葉が必要であり、愛行を常に精進努力して実践している限りにおいて"迷い"は起こらないのであります。愛行を実践しないで、屁理屈ばかり言っているから、それが「迷い」なのであります。 畑に種を播くとは、人々の神性佛性をひきだすため、愛行を人々に施すことを意味しています。人々を光明化するために真理の種を播くことを意味しています。畑は大地であり一切のものをはぐくみ育てるところの「神様の領域」のことであります。 ですから「畑に良い種を蒔く」という、神様の御用のために人々に神性、佛性の種子を蒔き(実際には神性佛性が本来あるのですから、それを引き出すことになります)愛行を施す時には、百倍・千倍・更に一粒万倍の収穫を得ることになるのであります。 このことをイエスは次のように譬ています。 「また、ほかの譬を彼らに示して言われた『天国は一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきてその枝に宿るほどの木になる』(31~32) さらにイエスはつぎのような譬をいわれました。 「またほかの譬を彼らに語られた『天国はパン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』」(33) 谷口雅春先生は"人に宿る天国"(神性・佛性)は、「愛行」という形で与えるほど、殖えてくるものであり、それは一匙のパン種を三斗の粉の中に入れると発酵しておいしいパンが出来るのと同じであると教えておられます。 一匙のパン種、つまり小さな愛行をおろそかにしないで実行するときに多くの人々に美徳を発揮させ、幸福をもたらすことになります。さてそこで天国なるものは何処にあるか。一番明確に私達に教えていただけるものは、聖経「甘露の法雨」であります。 その「人間」の項の156、157、158、159には次のようにしめされています。 156キリストは『神の國は汝らの内にあり』と云い給えり。 157誠に誠に汝らに告げん。 158『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。 159『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に『汝らの内』にのみ神の國はあるなり。 続いて聖経「甘露の法雨」には次のように示されています。 162キリストは又云い給えり。『吾が国は此の世の國にあらず』と。 163此の世の國は唯影にすぎざるなり。 164常楽の国土は内にのみあり、 内に常楽の国土を自覚してのみ 外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。 さて、その神の國なる「汝の内に在り」と云われるものが、何故に「神の國に入ること能わず」とか、「神の國に入ることができる」というように聖書に書いてあるのだろうかということです。谷口雅春先生はそれについて、次のように述べておられます。 それは「神の國が今此処にありながら、その今此処にある"神の國"に触れることも出来ないし、"神の國"に近づくことが出来ない人もあるからである。それは"神の國"を"神"という放送局から放送される"番組"であると譬えるならばよく理解し得るのである。 "神の國"を放送している電波は、今此処にすでに来ているのである。恐らく、その電波は吾々の身体の中にもあるであろう。即ち"神の國"なるものは、既に"汝の内にある"のである。しかしその『自己の内』に既にある"神の國"は肉眼に見える状態ではないのであるから、肉体としての自分はまだ"神の國"にいないのである。 今此処にありながら、無限の遠さにその神の國はあるということが出来るのである。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違又は次元の相違から来る遠さなのである。 今此処に"神の國"の電波はありながら、それは無限の遠さであって見ることも出来ないのである。」 然し、観ずることによって現れることは、すでに谷口雅春先生が教えておられることであります。つまり心の波長を"神の國"に合わすことであります。心の波長を合わさない人にとっては"神の國"は無限の遠さにあるのであります。 実相世界は、現実世界にくらべて超高度の周波数の世界であるという意味において、高きものを仰ぎ見る感情を含めて、これを"天"又は"天国"と称するのであります。 実相世界は超高周波のコトバの世界であり、それが最高霊界(ホワイトスピリットの世界)、高級霊界(ブルースピリットの世界)、低級霊界(レッドスピリットの世界)というように、次第にその霊的振動数が弱まり、波動が鈍重となり、更に波動が鈍重になり弱まると、その波動は硬化して"物質"の相をあらわすことになるのである。 更に谷口雅春先生はつぎのように説いておられます。 「人間の肉体は、この低次の鈍重な波動の世界(物質界)に属しているのであるが、それに宿っている霊魂は、いづれも"神の子"であり、肉体よりも高次の周波数をもつ霊魂たちであるけれども"神の子"としての超高度の霊的波動を顕現するには、おおむね程遠いのであって、色々の体験と修行を通して、次第にその霊魂が磨かれ、内部の実相を蔽う不純物が取り除かれ、次第に高級霊魂に近づきつつあるのである。」 私達が内在する神性佛性をますますハッキリとあらわすためには、現象界の事物に執着する心を放ち去り、棄て去って、創造の本源世界に入るために毎日の生活の中で行ずることが大切であります。その明快な指針が「生長の家信徒行持要目」であります。 (終わり・195―3) |