死 に つ い て

  仙 頭   泰

 

 聖経「甘露の法雨」の「人間」の項を開いて見て下さい。
175人間の真性は先ず霊なる生命にして心の糸を組み合せて肉体の繭を造りその繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊は肉体となるなり。
176汝ら明らかに知れ、繭は蚕に非ず、
   然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。

 さて、この次からじっくりと読んでください。
177時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
178汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿かれ。
179人間は生命なるが故に常に死を知らず。
このように、ここにハッキリと人間に死のないことが示されてあります。

 谷口雅春先生は、人間をこの肉体だと思い違いをしている人には、生があり、死もまたあることを教えて下さいました。私たちの知らねばならぬことは、本当の人間についてであります。生長の家では、本当の人間は「神の最高の自己実現であり、霊的実在である」と教えています。

 聖経「甘露の法雨」には、更にもう一度つぎのように述べて、死のないことが示されています。
180想念に従い、時に従い、必要に従い肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、生命そのものは死するに非ず。
   想念を変うることによって、よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。
181されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。
182かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天かけらん。
183これをもって人間の死となすなかれ。
184人間の本体は生命なるが故に常に死することあらざるなり。

 ここに私たちが、この現象界で色々な状態をあらわしますが、やがてこの「肉体の繭」を必要としない時が、何時か来るわけです。この様な時を私たちが迎えても「人間の本体は生命である」が故に、常に死することはないと云うのであります。

 谷口雅春先生は「人間死んでも死なぬ」や、「生命の実相」霊界篇と題する本の中で、霊界に関する色々のことを書いておられます。人間の運命を考える場合、私たちは霊界との関連を無視するわけには、いかないのであります。

 最近では、人々が人間の死の瀬戸際まで行って、そして蘇生し、その時の様々の体験を語っています。そしてその臨死体験を医学的な面から研究した本も出版されています。その体験した内容によれば、臨終とよばれる時に、まばゆいばかりの光輝く美しい光景を見たり、この世を去って久しい身内の霊などに会ったりしています。

 人間の死の床にある者が、苦しみつつ人生の終焉を迎えるという一般認識とは、そぐわぬ事実があるということです。死の瀬戸際まで行った人間が蘇生したその時点で体験した内容を語る時、苦痛は勿論のこと絶望すらなかったということです。それどころか穏やかな安らかな気持ちにひたったと主張しているのであります。

 そしてこの体験は、自分の一生のうちの一番すばらしい瞬間でさえも、つまらなく感じられるほどであり、そのすばらしさは私たちの使用している言葉では、到底表現できるものではないと云うのであります。そして臨死体験をした人達が、時間を超越した次元の中で起こった出来事であるかのように、自分の体験を述べています。

 それから臨死体験した人達が、自分の肉体から抜けだしていたようだと述べています。自分の一番肝心な部分が肉体から離れ、周囲の事物を視覚的にとらえることができたと
感じています。臨死体験中には、この「分離した自分」が自己として自覚される唯一の存在となり、この肉体は「抜け殻」に成り下がってしまうのです。

 「分離した自分」を、眼に見えない非物質的存在として自覚した人は、臨死体験者の93パーセントにものぼっていました。肉体から抜けだしている間、本人の意識は肉体ではなく「分離した自分」の中にあり、完全に覚醒して意識水準は高く、驚くほど思考が明瞭になるようです。

 臨死体験した人達は、死と「来世」 に対する新しい考え方になり、毎日毎日を懸命に生きる、「今この時」を一生懸命に生きようという気持ちになり、死や未知なるものに対する恐怖に、捕らわれなくなります。

 今肉体をもって生きている間に、もっと生き甲斐のある生活をすることであり、この世でもっと人間同士が助け合い、愛し合って生きていかなくてはならないという、人生を前向きの考え方に変わるのです。

 今回、学習したのは、肉体の死の直前での体験を中心にしました。ここでもう一度、はじめに書きましたところの聖経の部分を、心靜に読みかえしてみましょう。

 アルバ−ト・アインシュタインは次のように述べています。
 「科学を真剣に追究しているものは誰であれ、宇宙の法則の中に神の霊が顕在していることを確信するに至る。神の霊は人類の霊をはるかに凌ぎ、神の霊の前に人間は、自らの力のささやかなることを知り、謙虚にならざるを得ないのである。」
 

                             (終わり・211−7)

 

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