「悟り」と「悔改め」
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谷口雅春先生は「今此処に生きている生命を救うことが出来ないで、死んでから救われるといっても、それはわからない。或いは救われるかも知れないけれども、何故今ここに生きている生命が救われて悪いかという道理はないのであります。今救われてこそ未来に於いて救われるということが本当に判るのではないかと思うのであります。」と述べておられるのであります。 生長の家では、宗教的の救いと云ったものは、私達が魚を網で掬って、もっと広いどこかの海に放してやるといった具合に、ただ物質的な環境がよくなったり、病気が治ったりすることが、本当に救われることであると云わないのであります。 私達が救われるということは、「いのちの自由」を得ることであります。私達の中に生きているところの「いのち」が本当の自由を得ることです。私達が、総ての絆を脱して、つまりすべての悩み、苦しみの縛りから脱けだして自由自在の境地に達することであります。これを仏教では「悟り」といいます。キリスト教では、「悔い改め」と云うのであります。 谷口雅春先生はつぎの様に述べておられます。 「"悔い改め"ということは"何か昨日わたしは、こういう悪いことをした、それに対して今日からはそれをすまい"と云う具合に後悔をして、その一つ一つの行いを改めようと決心することが悔い改めの全部ではないのであります。それはほんの一部分でありまして、本当の悔い改めというものは、心がクラリと、向き変わってしまうことであります。 心がクラリと廻って完全に三百六十度廻転して、すっかり自分のいる世界が変わってしまうことが、悔い改めなのであります。自分のいる世界といっても、この物質的な坐っている肉体の場所のことではありません。心の坐り場所であります。 今まで、吾々は人間を罪深きものであると考えていた。その罪深き自分と考えていたところの旧き自分から脱け出して、心がクラリと自分の心の坐り場所を一転してしまって、罪も悩みも何にもないところの"本当の自分"というものを見出すのが、本当の悔い改めであると思うのであります」。 つまり本当の悔い改めというものは、今まで自分自身を罪ある肉体であると思っていたのを、罪なきところの神の子であるという自覚に、三百六十度廻転させたことであります。これが廻心であります。自分を物質的存在であると考えていたのを、そうではない、自分は神の子なる霊的実在であるという大自覚を得ることが"悔い改め"であります。 私達は、この様に悔い改めたその瞬間、天国を此処で享受し得るのであると、谷口雅春先生は説いておられるのであります。つまり聖書の中にある悔い改めと云うことは、自分は昨日悪いことをしたから、今日はもう腹を立てまいと考えるように、一つ一つの悪いことを善い方に改めて行こうとする考え方ではないのであります。 今までは、自分は罪深きものであったという自覚からクラリと一転して「自分は、神の最高の自己実現である。霊的実在である」という自覚に生まれ更ることであります。この様な自覚に生まれ更った時に「悔い改め」は、環境も境遇もみなその人の心の影でありますから、その心の影として天国極楽浄土の状態が毎日の生活の中にも表現されてくるのであります。 谷口雅春先生は、さらにつぎの様に述べておられます。 「肉から生まれた者はいつまで経っても肉である。罪あるところの肉体が、いくら後悔して今日からよき行いに悔い改めようと、こう思いましても決して、天国へも神の國へも行くことが出来ないのです。 天国は此処に見よ、彼処に見よという具合に、物質的世界にはないのであって、神の御霊が自分の内に宿ってきて自己の生命となっているのであるという事実に目覚めたとき、そこに自己の内に新しき生命の自覚として天国があるのです」。 だから天国とはこういう形だと、恰好を見せる訳には行かない。汝の内にある、心の内にある、自覚のクラリと転換したところに、其処に天国があり、神の國があるのであります。私達は、本当にある自分の相(すがた)を自覚することに精進いたしましょう。この本当にある自分の相(すがた)を自覚すること、これこそ本当の宗教的救いであります。 (終わり・196−4) |