人間の本質について

仙頭 泰

 

 生長の家では、本当の人間は「神の最高の自己実現である」「霊的実在である」と教えています。聖経「甘露の法雨」の人間の項を開いてください。124節には、人間は物質に非ず、肉体に非ずと示されています。そして126節には次のように示されています。

 「汝ら、よく人間の実相を悟るべし、
 人間は霊なり、生命なり、不死なり」

 そして、127、128、129節には、「神と人間」との関係について「光源と光線」の例えでもって説明してあります。そしてここに「神と人間」とは一体であることが明示されているのであります。

 神は霊であるが故に人間も亦霊であり、「まことの人間は、霊なるが故に、愛なるが故に、智恵なるが故に、生命なるが故に、罪を犯すこと能わず、病にかかること能わず、死滅すること能わず、罪も、病も、死も、畢竟汝らの悪夢に過ぎず」と134節に示されているのであります。

 135、136節には「汝ら生命の実相を自覚せよ。汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ」と明示され、私達に「真性の人間」を自覚することが、どんなに大切なものであるかを、注意しておられるのであります。

 さらに137節には「『真性の人間』は神人にして神そのままの姿なり」と明示され私達に対して、自分自身の本性を自覚することの重要なことを、繰り返し示されているのであります。

 そして142節には「汝ら自身は『真性の人間』にして、そのほかの如何なるものにも非ず」と力強く示され、私達の霊的自覚の高揚することの必要性を明示しておられます。
 
147節には「実相の世界に於いては神と人とは一体なり、神は光源にして人間は神より出でたる光なり」と、再び「神と人間」との関係について、私達に明示されているのであります。

 私達に対して、罪、病、死が実在すると考えることの誤りを指摘され、これらが実在するというところの悪夢から、醒めるように示されているのであります。そしてこれらの悪夢が破砕された時に、すばらしい世界が展開してくることが、次のように示されています。

 153節「最初の夢なければ次ぎの夢なし。」
 154節「悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず、悉く夢なければ自性無病なるが故に病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず、悉く夢なければ本来永生なるが故に死滅すること能わず。」

 このところには、私達が仮に罪、病、死と云うものをどんなに欲しても、そのようなものは「……能わず」と、実に力強い言葉で以て否定されているのであります。そこで155節を見て下さい。

 155節「されば地上の人間よ、心を尽くして自己の霊なる本体を求めよ、これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿かれ」

 ここにも私達に対して、霊的実在なる自己を自覚することが大切なことを示されています。そして私達に、イエスの言葉「神の國は汝らの内にあり」「吾が國はこの世の國にあらず」を、引用されて「常楽の国土」は私達の内にのみあるのであって、このことを自覚することによってのみ、その自覚の映しとして現象界に、「常楽の国土」があらわれてくることを示しておられます。

 「映しの世界を浄める」ためには、私達の心の原版を浄めて、「迷いの汚点」を取り除くことが必要であります。人間の五官というものは、ただ「映しの世界」のみを見るものであることが示され、物質の世界は、虚しきもの、影に過ぎざるものであること、そして人間の肉体は心の影に過ぎざることが示されています。そこで173、174節を見ましょう。

 173節「人間の真性はこれ神人、永遠不滅の霊体にして物質をもって造り固めたる機械にあらず、また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、斯くの如き二元論は悉く誤れり。」
 174節「物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非ずして、蚕が先ず糸を吐きて繭を作り繭の中にみずから蚕が宿るがごとし。」

 つぎに人間の真性と肉体に関してつぎのように示されています。
 175節「人間の真性は先ず霊なる生命にして心を組み合わせて肉体の繭を造り、その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊は肉体となるなり。」

 私達の肉体は、人間ではなくて、人間の繭にすぎないことを知らねばなりません。このことが理解されますと、肉体が死滅しても、本当の人間は不滅であることがわかるのであります。ですから、179節には「人間は生命なるが故に常に死を知らず」と、わざわざ『常に』という言葉を入れて人間の不生不滅を説いてあるところに注目しなければなりません。

 つぎに180節のところに、私達がこの現象世界において、肉体や境遇に様々な状態を現しますが、その状態はその人の霊魂の進化の過程として、その人の想念に従い、時に従い、必要に従って顕しているのであります。
 ですから、私達が不完全の状態を現しているからといって、その人を非難するのではなく、一日も早く、実相の円満完全な状態が現れますようにと、その人のために祈ってあげることが、大切なことであります。私達は、自己の想念を変化させることによって、自己の肉体の状態や環境を変化させることが出来るのであります。

 私達が、自己の想念を自由自在に駆使して、どのような完全な状態を現しても、現象は変化するものであり、常在するものではないことを知らなくてはなりません。私達が必ず迎えなくてはならぬものは、肉体の死であります。つまり私達の生命がこの肉体の繭を必要としない時が、誰にでもやってくるということです。

 釈迦が臨終を迎えられた時に、弟子達は何故釈迦のように、善根功徳を積まれた方が、病気の状態を現して、死ななくてはならないのかと、心を動揺させました。

 ここで182節を見てみましょう。
 182節「かくの如き、生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。」

 私達がこの世における使命を果たして、この地上を去る時がきても、「これをもって人間の死となすなかれ」(183節)であります。私達人間の本体は、生命でありますから死滅することはないのであります。

 私達は、肉体が生くる死するも、結局は生命は滅びないで、宇宙の大生命と一緒に「無限生長の道」を歩んで行くのであります。私達が「真性の人間」を自覚する時、そこは、ただもう歓喜し相擁して舞踏せざるを得ず、生命の讃歌を声高らかに合唱する世界となるのであります。

                             (終わり)

 

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