神のラッパとして

仙頭 泰

 

  谷口雅春先生は、常に「私は神のラッパである」と言っておられました。そして先生のお書きになる文章は、つねに神からの啓示によるものであることを述べておられます。「菩薩は何を為すべきか」の九頁には、つぎのように書いておられます。

「世界がこのように急速に航空機や電波受信機が発達してせまくならない前だったら、地球は広いから、色々の宗派が群雄割拠していてもあまり互いに障りにはならなかったけれども、このように地球が狭くなってきたら、どうしても万教帰一のこの生長の家のような、あらゆるものを生かすところの完璧な宗教が要るようになったのであります。

 瑕(キズ)のない立派な珠(タマ)のような、あらゆる宗教を生かし、あらゆる人類を生かし調和せしめる、そういう教えを私というラッパを通して神が説かしめられたのは、深い意義のあることであります。」

 また「生命の実相」第一巻の中で「生長の家とわたし」と題するご文章では、つぎのように述べておられます。

 「もし『生長の家』に教祖というべきものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、その源は霊界にあるのである。古来から神品といい神らしいといいインスピレーションといったのはこれである。

 ……われらがいっそう高き世界よりくる思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。

 この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたくしの書くものに、純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」


 谷口雅春先生はつねに「私は『生長の家』の教祖ではない」と述べておられるのであります。「詳説神想観」の"はしがき"のなかに、つぎのようなお言葉があります。

 「できるだけ多くの人たちが、真理をただ書籍上で知るだけでなく、身をもって実修
して、真理を全身心をもって体得し、一切の繋縛を脱して自由自在の境地に達せられんことを希望するのである。
 これは(神想観のこと)神授のものであって、私自身も、これによって尚、修行中のものであることを申添えて置く。」

 私達、講師会員は「うぬぼれの心」をもってはならないのです。信徒の方々のなかにも、深い悟りに入っておられる人は、多いのです。ですから講師会員は伝道にあたっては、ただ神のラッパとして、活動させていただけばよいのです。

 谷口雅春先生は、第二回目のブラジル御巡錫をなされる時に、「如何なる話をしたらよいか導き給え」という意味の祈りを、眠りしなになされたのであります。その時に、明け方目覚められて、夢うつつのような心境において、神が谷口雅春先生に「真理を"かく語れ"」というかのように、諄々と説き給う神の声を聴かれたのであります。

 その時のことを、次のように述べておられます。
 「それはわたしが筆記したのではない。唯、神が繰り返し告げ給うた言葉を記憶によって再現して、それを文章にしたものが本書である。従ってその文中"わたし"とあるのは"神"御自身のことであって谷口のことではない。
 なるべく神が告げ給うた言葉の調子を文章にあらわそうとしたのであるけれども、表現力足らずして充分にそれはできなかった。」

 このようにして、出来上がったのが、「神真理を告げ給う」と題する本なのであります。神は谷口雅春先生を通して、真理を私達に説かれたのであります。そしてその御文章のはじめの方に次のようなお言葉があります。

 「真理は人間の肉体から生まれてくるものでも、人間の脳細胞から生産されてくるものでもなく、実にそれらの人々に宿っている"わたし"がそれを説いたのである」(同書・12頁)そしてまたつぎのように、説かれてあります。

 「しかし、"本当の教祖"というべき"真理の啓示者"は"実相世界"にある"神"のみなのである。イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』と言っているし、谷口雅春も、"自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はる"といっているのである。」

 このお言葉は、谷口雅春先生の「実相と現象」と題する御本の中の"はしがき"にも引用され、さらに次ぎのような事を書いておられます。

 「このような文章− 神の言(コトバ)に接する毎に、私は畏れ平伏(ヒレフ)すのである。そして図りしれない神のはからい、摂理、お導きに、谷口は十二分にお応えし得たであろうか、この九十余年の生(セイ)を以て些かの悔いることなく尽くし得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。

 そして谷口賜った神々の大いなる恩寵に唯々感謝合掌、悦びが悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に拝するのである。本著作集も第四巻となり、いよいよ佳境に入った感がある。生命の実相哲学の骨格を成す唯神実相論の霊々妙々の極意を、極めて平明に、話し言葉を以て表現してある。

 先の海外巡錫の時よりも若い時代の著述が多いが、もとより谷口の脳髄知、谷口の力倆で構えて説いたものではない。いずれもその折々に最も相応(フサワ)しい神々の指導助言の賜である万般の奇瑞が続出するのも、故なしとしない。

 諸賢が本著に親しまれることにより"聖なる求め"を放棄することなく日に日に高きを望み、深きに入りて、真理を体得せられんことを、神に代わり切に切に望むものである。」

 この"はしがき"を書かれた日付は、昭和六十年五月二十八日となっています。そして、この年の六月十七日、午前七時五十三分、九十一歳の天寿をまっとうされて、谷口雅春先生は神去りました。

 私達は谷口雅春先生のこの純粋な求道のお姿を、自分の胸の中に深く刻み込んで伝道者としての使命を果たしましょう。

                             (終わり)

 

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