至上者の自覚 仙頭 泰 |
「至上者の自覚の神示」の中に「人即ち神であると云う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此の世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である」と示されています。 「菩薩は何を為すべきか」の本の中に、"人類光明化運動指針"があります。その第三條のところに、生長の家の人類光明化運動で第一にすべきことは、「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を凡ての人々のうちに開顕し確立することである」と述べてあります。 谷口雅春先生は、この神示に示された「人即ち神である」という言葉で「人」というのは「人の本性」または「人の実相」のことであって「肉体人間」のことではないと、ハッキリと説いておられます。 このことは「涅槃経」にある「一切衆生悉く仏性あり」に一致するのであります。つまり人間に"内在する仏性"こそが人間の実相であり、「本当の人間」であります。肉体と見えるのは「人間の仮相」にしか過ぎないのであります。仮相はどんなにアルかの如く見えても、「無い」のです。「実相」のみがアルのです。 キリスト教では「内在のキリスト」「内在の神性」と云うのであります。これが本当の人間なのであります。この仮相でない「本当の人間」は「神」そのものであると示されているのです。 「神真理を告げ給う」の本の第三章のはじめに次ぎの様に書かれています。 「人間は"霊"であり、"わたし"の分身である。肉体は人間そのものではないのである。肉体は"神の分身"である霊が地上に於ける使命を果たさんがために、蚕がみずから繭をつくってその中に宿るが如く、地上生活を送るに必要な条件を備えた宇宙服をつくって、その中に霊が宿って行動するように出来ているのである。 その宇宙服が肉体であり、いわば肉体は生ける"神の宮"である。肉体をあなた達はもっと尊敬しなければならないのである。肉体をつまらない目的に使ったり、汚れた行いをして、神の宮の神聖を汚し、その尊厳を傷つけてはならにのである。」 さらに第四章のはじめには、つぎのように書かれてあります。 「あなた達にとって、何よりも大切なことは肉体の健康でもなければ物質的な富の豊富ということでもないのである。あなた達人間にとって最高必須のものは、あなた達自身の生命の本源にさかのぼって"本当の自分"を知り、その"本当の自分"が"神"そのものであり、"わたし"があなたに宿っているのであり"わたし"はあなたの肉体という媒体を通して自己顕現しつつあるのだということを自覚することなのである。」 ここでヨハネ伝の第十章の33節から36節のところを読んで下さい。イエスが自らを神と一体だと云ったことに対して、ユダヤ人が石にて打とうとした時に、イエスが旧約聖書詩篇の第82篇の6節を引用して答えています。 「わたしは言う、あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。」 釈迦は35歳の12月8日の朝、暁の明星を見ながら、大悟せられ「天上天下唯我独尊」の自覚を得ておられます。 生長の家は、この大自覚を人類に得させんためにこの世に出現したのであります。「人間はみな神の子」であると悟ったならば、自分も「神の子」であると同時に、相手のすべての人も「神の子」であるということがわかりますから、相互礼拝ということが自然に行われるようになります。 敬虔な気持ちで相手に対して、その実相を拝むようになるので決して傲慢にならないのであります。ここで「人類光明化運動指針」の第四条を開いてみます。「人間神の子」の自覚についてつぎの様に説明してあります。 「神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現であると云う自覚は『一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ』と云う覚悟に徹してその覚悟を徹頭徹尾生き切ることである。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。」 私達講師会員は、生長の家の運動の消長は「講師会員である自分の日々の努力精進にあるのだ」ということを自覚いたしましょう。私達生長の家の講師会員たるものは、世間の人がどのように考えておろうとも、自分を一切者とする自覚を貫き通して「神の人類光明化運動」伸展のために不惜身命、邁進しようではありませんか。 地上天国を建設し「神のみこころ」を顕現するためには、このような覚悟の同志が必要なのです。私達は神からお召しを受けた、使徒です。お互いに励まし合って使命達成のために頑張りましょう。 (終わり) |