観ずればあらわれる 仙頭 泰 |
谷口雅春先生は「真理」第8巻の36頁のところに、つぎのように述べておられます。 「人間の脳髄という複雑な組織が、ある数種類の元素が偶然にただ集まっただけで、出来る筈がない。適当なる順序に元素を配列し、分子を配列し、細胞を配列する精巧なる知性に、その制作が導かれなかったならば、到底複雑微妙な脳髄構造というものが出来る筈がない」というのであります。 ここに、脳髄からでてきた「心」以前に、脳髄以前の「心」(知性)の存在を認めなければならに理由があります。その「知性」こそが吾々自身であり、肉体が死んでも、脳髄のハタラキが停止しても、脳髄をつくた「知性」は決して死ぬものではないのであります。この「知性」こそが本当の人間であり、それは無病であり、肉体以前から存するものでありますから、不老不死であります。 この「知性」はよろずの元素を組合わせて、この肉体をつくった本尊でありますから、この「知性」(これを霊とも謂う)が曇らされない限り、新陳代謝の際につねに若く完全なる有様に肉体を修繕し、補うので決して老いることも病むこともないわけであります。人間が病み、且つ老いるのは、人間の本体である「知性」(霊性)の表面に迷いの雲が懸かったからであって、人間の「霊性」そのものが濁ったのではありません。 その「迷いの雲」の中には、色々のものがあります。第一には「人間は物質だ、肉体だ」という観念であります。この観念は五官の感覚を媒介として入ってきます。すると「人間は物質の成分の不足で病気にかかる」とか、「物質を消耗するから疲労する」とか、と云う「第二の迷い」を生じます。 その「迷いの雲」で私達の「霊性」を曇らさないようにして、「霊性」そのものを直接示現するようにしますならば、永遠に老いることなき、病むことなき、疲れることなき、「霊性」の象徴的示現としての健全な肉体が出現するのであります。 この「迷いの雲」は五官を媒介として入ってきたのですから、私達は一日に一回ないし二回は神想観を実修して、五官の目を閉じ、物質的現象の肉体を見ず、霊性の完全円満なる実相を観る修行をすることが必要であると教えられています。「迷い」を去れば「実相」の完全さが現れてくるのです。例えばコップに水をいれて、そこに一本の箸を差し込みますと、この箸は水面のところで折れたように見えるのであります。しかしその水を捨ててから見ますと、その箸は折れていない真っ直ぐな箸で在るという、本当の相が分かるのであります。 この水にあたるものが、私達の健全なる実相を曲げて不健康に見せる「迷いの雲」であります。この箸の折れたように見えるのを直すためには、箸を逆の方向にねじまげる操作は決して必要ではないのです。箸が折れたように見せる迷いの根元となっている水を捨てることです。それと同じように、人間を病気のように見せている「人間物質観」を捨てさることであります。 人間物質観を捨てされば、「物質なるがゆえに消耗する」とか、「物質なるがゆえに結局は滅びる」とかと云ったような第二次、第三次の迷いの観念が消え去る程度に従って、人間の完全なる霊性が現象界に現れ、健康があらわれてくるのであります。健康だけでなく、霊性の自在の発現としてあらゆる善きものが実現するのであります。 この現象世界は、「心の影の世界」であります。また、別の言葉で云うならば「観ずる通りに現れる世界」であります。ですから現象は私達の心の変化に従って、その状態が変化しているのであります。現象を変化するためには、先ず自分の心を変えることです。ここで私達がしっかりと覚えておかなくてはならないのは、生長の家の運動は神の人類光明化運動であると云うことです。 「菩薩は何を為すべきか」の本の中では、つぎのような説明があります。生長の家が立教の使命とする人類光明化運動において第一にすることは、「神の子としての人間なるものの本当の(すがた)をすべての人々のうちに開顕し、確立することによって光明化する運動である」と述べています。 私達にとって大切なものは、まず人間観の確立であります。本当の人間は、霊的実在であり、神の最高の自己実現であることをしっかりと自覚することであります。私達は完全円満なる神の表現であり、これは永遠に変わることのない真理であります。すでに私達は完全なる神の表現でありますから、自分で神を表現しようと頑張る必要はないのであります。すでに完全なる神の表現なのであります。 そう見えないのは自分の心の迷いに過ぎないのであります。では迷いを取り去るにはどうすればよいか。それには「迷い」を除きさろうと頑張る必要はないのであります。「頑張る心」そのものが「迷い」なのです。「迷いの心」で「迷い」を取り去ろうと思っても、それは煙の出ているタバコをふりまわして、目の前のタバコの煙を追い払おうとするのと同じことなのであります。そこには、煙がもうもうと立ちこめるだけであります。 「迷いの心」というものは、水の表面に起こっている波のようなものであります。心の表面に不均衡が起こるために、その波によって波形の光と影とがあらわれるように、心に暗い処や明るい処があらわれるのであります。私達にとって必要なことは、神の完全なる支配を信じてまかせることです。 神にまかせるといっても、私達がなにもしないで神に働いてもらうというのではないのであります。私を通して、神の創造の音楽が演奏されているのであるといったような、愉快な心境で、努力せずして自然に努力されている。はからずして計らわれている状態になることが必要なのであります。 私達はつねに、「自分の力」だと思わずに、「神の力、つねにわれを通じて働き給う」と信じて、その神の御業のすばらしさを讃歎するのがよいのであります。そこに自分のハタラキが消えてしまって、神のみの完全なハタラキがあらわれるのであります。 (終わり) |