実相と現象

仙頭 泰
 今回は「実相と現象」について学習いたします。テキストは、谷口雅春先生の「実相と現象」と題する御本の231頁からであります。はじめに、次のように書いてあります。

 「生長の家の説く真理を理解しようと思えば実相と現象の区別を十分知らなければならないのであります。実相というのは、実の相、現象というのは、現れている象(かたち)であります。現れている象(かたち)には、色々の不完全な姿があるのでありますけれども、しかし、その奧に真物(ほんもの)があるのであります」

 そこで、例えとしてここに一人の非行少年がいるとします。現象面ではたしかに非行ばかりする困った少年ですが、その奧には、神の命が宿っているのであります。そこで、生長の家ではその現象の奧にある実相の円満完全なる相(すがた)を私達が心の眼で本当に観ることができ、また神性佛性を礼拝することが出来ました時に、その内部に宿っているところの完全なものが現れてくると、説いているのであります。

 今までの宗教が人間の道徳性を高めるために努力しながらも、その効果があがらなかったのは、人間を善くしようと思いながらも、「現象の悪」について、その「悪」を捜しまわって、その「悪」をとらえて善くしようとしたから善くならなかったのです。それは現象界には「認めたものが現れる」という法則が作用しているからです。

 生長の家は、前にも述べたように「現象の悪」を認めて、それを善くしようとするのではなく、"実相"の完全円満なる神性佛性を直視して、それを礼拝し、「コトバの力」を活用し、人間の本来円満完全なる実相を、この世に顕現することを教えているのであります。

 ここで私達がしっかりと学ぶことは人の「完全円満なる実相」を礼拝することが、どんなに大切なことであるかということです。私達はそれを形に現して、お互いに合掌して、「有難うございます」といって、礼拝し合うのであります。

 人間関係におきましても、相手が不完全な状態をあらわしている時は、その人のすばらしい実相が、完全に顕現していないということなのであります。「不完全」というものが、存在するのではないのです。 生長の家では、どんな不調和な状態が現在あらわれていても、それに心をひっかけるのではなくして、まづ心の世界で相手を神想観中に、祝福し、和解と善意と感謝の愛念を送ることによって解決することが、出来ることを教えています。
 環境も境遇も、心の影なのでありますから、自分自身の心が変わったら必ず周囲は変わるのであります。生長の家では、自己の内に絶対者を自覚することを教えているのであります。

 「物質的肉体だけを見れば"自分"というものは"他"から孤立している別々の存在のように見えておりますけれども、各人の内に宿っているのは"神の命"でありますから絶対者である。」

 従って、一切のものが、自分の内にあるのであります。この自己の内に宿る絶対者を自覚することを、「自分が自分自身の主人公になる」というのであります。自分の体だけを自由に動かせるのが自分の主人公だったら、それは決して絶対者でも、本当の自分の主人公でもないのです。

 人間が、神の子であり主人公であるという意味は、人間は環境をも支配し得る一切の支配者であるということを意味すると、知らなければならないのであります。人間が唯物論者であるかぎりにおいては、物質の束縛から自由になることは、出来ないのであります。それでは周囲の物質によって支配せられるところとなり、結局は物質の奴隷になるのであります。

 谷口雅春先生は、「正しい宗教というものは、人間に真理を知らしめ、人間をこの奴隷状態から根本的に解放して完全な自由を得させるためのものなのであります。だからイエス・キリストは『真理は汝を自由ならしめん』と言い、釈尊は『解脱(ゲダツ・自由)をもって佛となす』と仰せられたのであります」と、述べておられます。

 「生活の知恵365章」の本の119頁に次のように書いてあります。
「自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己に宿る普遍者、自己に宿る無限者、有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、現象にあらわれている奧にある超越者、今このままに久遠なる者、有限即無限、個性即普遍――それが私であり、あなたであり、一切の人々である。

 それを自覚するとき相互礼拝が自然に行われるようになるのである。自己を単なる物質的存在たる肉体だと見る限りに於いて、人間は『制約』から超越することはできない。即ち自由を完全に享受することができないのである。その制約から超越して自由を得るためには、『真理は汝を自由ならしめん』とイエスが言ったように、真理を知らなければならないのである。」

 私達は「制約」から超越して、完全に自由を享受するためには、物質の束縛から脱しなければなりません。生長の家では、神想観という観法を実修して、私達の仮相である、現象の肉体を見る眼を閉じるのであります。そして神と共にある本当の自分の円満完全なる霊的実在であるところの自分自身の相(スガタ)を観ずるのであります。
実相世界は円満完全大調和のすばらしい世界でありますから、その実相の円満完全な相を観ずれば、万事が調和した状態に展開してくるのであります。

                            (終わり・207―3)

 

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