霊的実在としての人間

仙頭 泰

 生長の家は、神の人類光明化運動を伸展して、この地上にすべての人類が相愛協力を実現したところの地上天国を建設せんとする大きな目標があります。そのために、まず第一にすることは、「神の子としての人間なるものの本当の相(スガタ)をすべての人々のうちに開顕し確立することであります。

 生長の家では、常に「肉体としての人間を理解せず『霊』として、『神の子』として、神の霊が今この『肉体』と見える相(すがた)に変貌して天降っているのであると『人間』を理解する」、このことを繰り返し教えているのであります。

 人間の本質を「肉体という物質の塊である」と見るか、また「霊的実在である」と見るかによって、人間観が異なってくるのであります。人間観の相異によって、現象界にあらわれてくる状態が変わってくるのであります。何故ならば、この現象界は「観ずる通りに現れてくる」からであります。

 生長の家では、人間の自由とか平等、あるいは政治、教育、経済、労働等の色々な分野において、本当の人間を「霊的実在で、円満完全なるものである」と把握した後に、考えないと正しい結論の出てこないことを、教えているのであります。私達一人一人が、霊的実在としての自分のすばらしさを自覚して、この自覚の中に生活するようになった時、この地上に感謝し合い、援け合うあたたかい人間愛に満ち溢れた社会を建設していく基礎ができるのであります。

 谷口雅春先生は「すべての人間の実相は神であるとして、拝むことによってその実相の完全さを顕し、その完全さを確立する運動が、生長の家の人類光明化運動である」とも、説明しておられるのであります。本当の人間は「神の最高の自己実現である。そして霊的実在である」、この自覚を一層深めることが、自分自身の人生においても、また世界平和をきたらすためにも、大変大切なことなのであります。

 谷口雅春先生は「人間神の子の自覚」即ち「神の最高の自己実現であるという自覚」について、つぎのように教えておられます。
「『人間神の子の自覚』とは、『自己を一切者とする自覚』を云うのである。単に『神様が私を生んだから、私は神の子だ』という漠然とした宗教感情だけにとどまらず、哲学的にも解明しなくてはならない。

 即ち自分というものは、只の個人だというようなものではなくて、『自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである』という大自覚である。これこそが本当に『自分自身に深切であれ』ということである。

 『自分自身に本当に深切である』ということは、自分の責任を回避するということであってはならない。責任を回避しなければならぬような小さいものだと『自分自身』思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになる。
だから、自分を一切者とするこの自覚の発動こそ、真に『人間神の子の自覚』の証左である。」

 私達は日常生活における、自分の生活の不平不満を、環境とか、社会とか、ともかくも他に責任を転嫁する態度が多いのであります。この様に私達が自分の周囲に一切の責任をなすりつける態度は「人間神の子」の自覚のあらわれではなく、唯物論の結果であり、自己劣等感そのものの増殖につながり、私達人類の生活を暗黒に向かって進めることになります。

 私達が、しなくてはならないことは、「自分は如何なる環境に置かれても自由自在である」という、すばらしい自主的存在であるとの自覚を深めることであります。生長の家では「自分が変われば世界が変わる」と教えています。

 生長の家の聖歌の中に「実相を観ずる歌」があります。この歌の中に「神はすべてにして、吾れは神の子なれば、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動く」という言葉があります。また招神歌の中には「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」と示されています。

 この様な言葉を各自の心の中で繰り返し念じ、潜在意識の底までたたき込むことが大切であります。そして壮大なる神の子自覚にめざめることであります。私達は、本当の人間は「神の最高の自己実現であり、霊的実在である」という自覚を全人類に伝えるために、これからも、なお一層の努力をいたしましょう。

 私達は常に「聖使命菩薩讃偈」を拝読して、聖使命菩薩としての生活に徹して講師会員としての使命を果たしましょう。

                             (終わり・206−2)

 

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