宇宙を貫く法則

仙頭 泰
 聖経「甘露の法雨」の中に、創造の神について「宇宙を貫く心、宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則」と書かれています。私達がこの大自然のことを研究するほど、この大自然の中には色々な法則が作用していることが理解されるのであります。これらの各種の法則は、私達がその法則を発見する以前から此の大自然の中に厳然として存在し、秩序整然と作用していたのであります。

 私達の生活しているこの太陽系にしましても、太陽を中心として月も地球も、そして多くの星も実に秩序整然と運行をつづけているのであります。この壮大なる宇宙構図を靜に思う時、私達はこの大宇宙をかくならしめている偉大な知性の、神秘な力を感ぜずにはおられないのであります。

 私達は周囲にある凡ての物の中に、大いなる知性の存在することを感じます。宇宙のすべての物の背後には、宇宙の知性(法則)が厳然として存在しているのであります。 谷口雅春先生は「法則は神の愛の現れである」と教えて下さいました。

 さて宇宙のもろもろの物が発生した最始源を尋ねる時、そこには何ら目に見える宇宙はなかったのであります。ただあるものは形なきものであったのです。それは感覚に触れがたきものであります。その一見「無」と見えるものから、太陽系統をはじめ諸々のものが発生したのであります。

 このことを考える時、その一見「無」と見えるところのものは、実は単なる「無」に非ずして、その中に「無尽蔵」を含むところの「無」であった、と云わなければならないのであります。つまり「内に無尽蔵を含む所の無」、言い換えれば「無にして無尽蔵なるもの」が即ち「創造の本源者」であり、私達が「神」又は「大生命」と呼ぶものです。

 私達が宇宙の最始源に、不可視の「大生命」のほかに何ものもなかったと知るならば、現在あるが如き宇宙構図を設計したところの「知能」も、その設計に従って工作される所の「動力」も、そしてその他の働きも、悉く「大生命」からきたものと云わなければなりません。

 ですから、大生命こそは一切の存在を斯くの如く存在せしめている所の「第一原理」であり、すべての「原因者」であります。すべての設計、構造、図案、原案、原型は無論のこと、その資材も、それを工作する力も、すべて大生命自らの中から
出たものであると云うことができるのであります。即ち宇宙の一切のものは、神御自身の中にその本源をもち、神御自身の上に働きかけて、神御自身を通して出現したのだと云うことができるのであります。
 「甘露の法雨」の「神」の項の第3節には次のように書いてあります。
3節 これらは大生命――絶対神の真性にして神があらわるれば、乃ち善となり義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。
かくの如く、すばらしい状態が湧きでて来るのであります。

 そして4節、5節にはつぎの如く書かれています。
4節 神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。
5節  神は実在のすべてを蔽う。


 聖経「甘露の法雨」の「神」の項には、神の創造について詳しく書かれてあり、じっくりと味わって讀誦することが大切であります。聖経にもありますように、宇宙に秩序があるというのは、驚くべき「知性」が宇宙に満ちて宇宙を支配していることを表しているのであります。この驚くべき「知性」は心の属性でありますから、宇宙に遍在する知性ある「心」こそ宇宙に存在するあらゆる天体の創造主であると云えるのであります。

 そこで、8節、9節そして10節を読んでみましょう。
8節 「心」はすべての造り主、「心」は宇宙に満つる実質、「心」こそ「全能」の神にして遍在したまう。
9節 この全能なる神、完全なる神の「心」動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る。
10節 万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし。

 聖書のヨハネ伝の第一章の第1節から第3節までを読んでみましょう。
1節 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2節 この言は初めに神と共にあった。
3節 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 さて、ここで谷口雅春先生のご説明を述べてみます。
「『心』はそのまま静止をしていたら何もないのです。皆さんでも『心』になんにも思わないで、ジッと靜にしておったら、それでも『心』がある筈だけれども、有るやら無いやら分からんでしょう。

 しかし、その『心』が動いたら――というと、心が何か想うわけであります。その『想うこと』が即ち『コトバ』であります。心が想うことを『想念』といいます。だから『初めに言(ことば)があった』という語は『はじめに想念があった』ということです。その初めには神のみが唯一の存在ですから、その言(ことば)は神から離れたものではない。

 それですから『初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』であります。神様は一切のものを造る本源であられますが、その神様がいらっしゃるところ必ず『コトバ』(即ち想念)があるというわけであります。そして心にコトバという波、即ち想念というものが起こったら、その想念の形に自然に原子、分子及びその他の資材が集められ配列されてそれが具体化されて来るのであります。

 神は波動をおこさなければ、現象的に現れて来ないところの、『無』なる実質の中に、コトバ即ち波動を起こして、コトバの現象化の第一歩が始められたのであります。」

 この「コトバ」が私達の内に宿って、私達の「生命」となっているのです。私達の言葉も、ものを造るところの「原型」となり、同時に「資材」となり、「造る力」となるのでありますから、私達が如何なる言葉を使用するかと云うことは、大変大切なことになります。そこで私達は常に実相を直視して、実相を語る言葉のみを使用するように努力いたしましょう。

                           (終わり・213−9)

 

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