教育の基礎となるもの

仙頭 泰
 生長の家では、教育の基礎となるものは、全ての人間に、円満完全な「神性」が内在することを信ずる事であると教えます。この円満完全なる人間の「本来性」を引き出すのが教育であります。生長の家では、教育と云うものは、教えこむのではなく本来の「円満完全性」を引き出すのであると教えます。そのためには、人間に内在する「神性」の円満完全性を信ずることが必要であります。

 「人間に、本来円満完全性はない」と信じていて、円満完全性を引き出すことは出来ないのであります。「信じて観る」ことによって、内在する円満完全性が現れてくるのであります。生長の家では「観ずれば現れる」と教えています。この現象の世界は「観ずる通りに現れる世界」であります。私達の人生は、その人のもっている通りの「観」が現れているのであります。私達が、幼い時から正しい人生観をもつことは大切なことであります。

 生長の家では言葉の力を活用することを教えます。子供を導くときには、常に「あなたは神の子だ。すばらしい頭をもっているのだ。それが段々一層すばらしく現れてくる」と云ったような言葉で、激励する事が必要なのであります。現在、子供が低能児のように見え、また知能が劣っているように見えたりしていても、やがて優良な知能成績を挙げる時が来るのであります。

 生長の家ではどんなに低能児に見えている子供でも、低能児だと云わずに言葉の力を活用して、小さな成功にでも限りない称讃を与えるのであります。「あなたはこんなに素晴らしい頭だから何でも出来る」と褒め称えるのです。そのようにする時、その子供の内部にある無限の可能性が次第に開発されて来るのであります。

 褒め言葉のない世界は地獄であると云われます。人間は誰でも、人から認められそして褒められたいものであります。人を褒める時には誠意をもってしなければなりません。誠意とは「真実を語る心」であります。真実を語る心で、現在劣等児であるのを褒めるのには、どうしても「人間は神の子であって、現在どんなに劣等児に見えていても、その真実は神の子であって円満完全なのだ」と云う正しい信念が必要なのであります。

 この信念がなければ、褒める言葉は空虚なものとなり、相手に対する追従にしか過ぎなくなるのであります。大切なことは、相手を「神の子」として、その神性を拝みきることです。「実相」を直視することであります。教育には「愛」が必要であります。本来「完全」であるべき人間が不完全な状態を現して、苦しんでいるのを見た時には、「ああ、可哀想に今こんなに不完全にあらわれて見えていても、本来神の子で完全なのだ。それがこんな状態に現れているのは可哀想だ――」と感ずるのであります。

 
 そこで、本来完全な相が現れるようにしてあげたいと云う、深い愛の心がこちらに起こるのであります。そこで、相手の「内在する神性」を覚醒させて、その相手に内在する無限叡智の「神性」を言葉により讃嘆して引き出すのであります。相手の実相の円満完全なる相を自分の心の底深く観じ、相手を真理の言葉にて鼓舞激励し、奮起させるのであります。そしてある程度まで手を引いて導きましたならば、あとは自分自らの立つ力を引き出すようにして「放つ」ことが必要なのであります。

 これを生長の家では「愛深き冷淡」、または「峻厳なる愛」と云います。「君は出来る、一人で出来る。神の子だから、必ずそれだけの力は内在する」と断固として言葉の力によって宣言して、他人に頼る心を断ち切り、内在の神と共に人生を力強く歩むように導くのであります。

 生長の家では「天地一切のものに感謝せよ」と教えます。一人の個人の自由には、多くの人の協調によってのみ得られるのであって、一人の人の自由への要求を満足させるためには、他の多くの人々の社会的連関が必要であることを知らなくてはなりません。

 「衆生の恩」を知ると云うことです。恩には、天地の恩、神仏の恩、国家の恩、社会の恩、父母の恩、その他家族全体の恩、師の恩、一切衆生の恩等々多くあります。これらのことを考えたならば、本当に天地一切のものに感謝せざるを得ないのであります。私達が今人間として生きているのでありますが、「人間とは如何なるものか」これが明確に理解されなければなりません。

 「肉体」は「本当の人間」ではないと知ることです。人間は神の生命の受胎せるものであります。このことを聖書には、聖霊の受胎と教えています。肉体はただ「胎」にしか過ぎないのであります。肉体は人間の三次元の世界で生活するための「道具」なのであります。どのように道具が精巧につくられていましても、「本当の人間」の自己表現及び人格鍛錬の為の道具なのであります。「道具」の利己的快楽の追求のために、「本当の人間」の堕落があってはならないのであります。

 昔から、聖者と云われた人達が、「霊肉の争闘」に苦しんだと云われますのは、本当の人間(霊)の念願と、道具たる「肉体」の追求とが互いに相反する場合に、痛切に苦しんだのであります。肉体が本当の人間であるならば「肉体」の克服は、「人間」自身の敗北であって、肉欲を克服し得た時に「霊の勝利」の崇高なる感情が湧き出てくる筈はないのであります。人間内部に宿る「完全なる神性」を引き出すことは、教育の根本義であることは、はじめに述べた通りであります。

 この現象世界は、観ずる通りに現れる世界でありますから、一切万事我より出て我に還ると云うことを、徹底して自覚することが大切であります。自分の運命は、自分の心の持ち方で決まると云うことです。何事が起ころうとも、責任を自分に帰して、他を怨まず、憎まず、自己を反省することにより、人生を光明化して、積極的に人生を開拓する力づよい人間の輩出こそ大切なことであります。

 本当の人間は、神の最高の自己実現であり、霊的実在であると自覚した人々でこの世の中が溢れた時、心の影である現象世界はすばらしく住み良い世界に造り出されていくのであります。

 

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