神の子としての実相人間

仙頭 泰
 生長の家では、本当の人間は「霊的実在であり、神の最高の自己実現である」と教えています。私達は「人間は神の子である」とも云います。

私達が、人生行路を歩むにあたり、恐怖心がなければ、決して不幸や悲惨は私達の周囲に近づくことはできないのであります。否それらは、凡て「本来の無」にもどり、消滅してしまうのであります。その為には「人間・神の子」の真理を自覚することが大変重要なことなのであります。それは、この自覚によって私達の恐怖心が消滅するからであります。

私達が、人間・神の子・本来無限力であるところの実相を自覚すればするほど、現象世界にも、その実相の完全円満なすばらしい状態が現れてくるのであります。「霊魂進化の神示」の中に「神の子なる人間の実相を、現象世界に実現するのが人生の目的である」と示されているのであります。

 ですから『神の子』たる私達は、神の生命を自己の生命とし、神の万徳円満完全なる状態を象徴化したものを自己の形態とし、神そのものとして生きることを歓びとし、神を愛し、神の子達なるいのちの兄弟姉妹と協力し、生命の兄弟姉妹を愛することに、喜びを覚えるのでありあります。

 「大調和の神示」の中で『汝の兄弟と和せよ』と示され、更に『汝らの兄弟のうち最も大なるものは、汝らの父母である。神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ』と、この様に明示してあります。聖経「天使の言葉」の中に、私達が色々と相異なる相(すがた)を現じていても悉く唯一神霊の反映(うつし)であって、すべて一つであることが、示されているのであります。

 「天使の言葉」の中に、次のように書いてあります。
『すべての生命を互いに兄弟なりと知り、すべての生命を互いに姉妹なりと知り、分ち難くすべての生命が一体なることを知り、神をすべての生命の父なりと知れば、汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。』

 ところで何故、現象世界の人間が、実相浄土の生活を送らず、互いに相争った苦悩の生活を送っているかと云うことです。それは、実相の「霊的実在人間」を見ることをせず、仮相の「物質的人間」を見て、その物質的現象人間を実在としているところに原因があるのであります。つまり、「霊的実在の人間」の円満完全なる神性を隠蔽したことが、『罪』の根本的な原因であり、苦悩のはじまりであります。

 実相の世界――「神の国」は私達の心の妄念(もうねん)をもって「ある」と思えばあり、「無い」と思えば無いといった不確実なものではないのであります。私達が妄念で「ある」と思ってみても、「無い」と思っても、そんなことで生滅・増減しないのが、実相の世界であります。

 この現象世界が色々に変わって、憂怖・悲喜(うふ・ひき)こもごもの状態に見えましても、また現象人間が消えても消えなくても、常楽の実相世界は少しも破砕せられず、滅することもなく、厳然として存在し、私達はこの身このままで今も現実に、その実相世界内に生活しているのであります。肉体の死後になって実相世界に移転するのではないのであります。

 谷口雅春先生は「霊なる『神の子』を、肉体と見るところの第一の神性隠蔽が『アダムの原罪』である。イエス自身は『アブラハムの生まれぬ前よりわれは在るなり』といわれた。この『永遠の神性(キリスト)』をもって、われらの救いの本尊だとするとき、その『永遠の神性』は誰にも皆自己の内面に宿っているのであり、この『永遠の神性』のみが本当の存在であり、『本当の自分』なのであるから、『救い』はすでに自己の内に備わっているのである。

 二千年前、ユダヤに生まれた肉体イエスを通さねば、救われないなどと肉体を礼拝の対象にしていると、偶像崇拝に陥ることになる。『永遠の神性(神そのもの)』に背をむけ、顔をそむけて、ある特定の肉体を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、本当の神を『自己の迷い』をもって包み隠せる、はなはだしき罪なのである。」と述べておられるのであります。

 物質的な形あるものを礼拝の対象としますと、人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえ、物質的顕現に捉えられて互いに他教を排斥するようになるのであります。これは、言葉を変えて云いますと礼拝の対象となる本尊を、「永遠の神性」「久遠の仏性」の中に見出さないからであります。

 谷口雅春先生はつぎの様に述べておられます。「仏性が既に自分の中にあって、その仏性が眼を醒まして、その本来の仏性となるのが、これが成仏である」と。こう云うことが分かってみれば、仏教もキリスト教も一つになれるのであります。これが生長の家の教えであります。生長の家では、常に「実相人間」を信ぜよと説くのであります。「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には、肉体は生きても、死んでも、永遠の生命が与えられるのであります。

 頭を包み隠して、顔写真を撮影してみましょう。完全な顔の写真は写らないのです。それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで、現象界を造り出したのでは、完全な現象は出現する筈はないのであります。ですから「自分は罪人だ」と云う観念はすべての現象界の罪悪の母体であり、「自分は神の子だ」と云う観念はすべての善き現象界を造る母体となるのであります。

 イエスも釈迦も、「われはそのまま罪なき者だ」との自覚に入ったのであります。谷口雅春先生は、今、自己を罪なき者だと覚ると同時に、「すべての人間が罪なき者だ」ということを悟り、その悟りを全人類にのべ伝えることを、人類を救う唯一の正しき道だとしておられるのであります。本来の完全な相を、本来の自由な相を、表出せんとあえぎ、求めている心のうめきが罪の観念なのであります。

 ここに炭火(すみび)があります。この炭火の上を、塵埃で蔽いますと、その塵埃から、煙が立ち上るのであります。本来「火」がなかったら煙は立ち上らないのであります。といって「火」そのものは「煙」であるかと云いますと、「火」そのものは「煙」ではありません。塵埃そのものが滅して「火」そのものなろうとする働きが「煙」であります。

 この「炭火(すみび)」が、本来円満完全なるところの自分の実相なのであります。そしてこの煙が「罪の意識」であります。つまり「完全円満なる自分の実相」が「迷い」に覆われると、その「迷い」を焼き尽くすために、「罪の意識」というものが立ち上ってくるのであります。ここで大切なことは、煙は煙であって、それは火ではないと云うことです。つまり罪は罪であって、それはホンモノの自分ではないとして、煙をして煙の去るままに、去らしめることであります。

 煙をもって「火」と取り違えたり、煙をもって「本物の火だ」と思ってはならないのであります。罪の姿をもって、神の姿だと思いあがってはならにのであります。火をいよいよ明らかにするためには、煙の嫌悪ということがなければならないのです。その煙を追い払うために、風をあてると、煙はたちまちにして光明輝く、大火災になってしまうのです。

 それと同じように、罪の意識がさかんになってきますと、一方には罪の意識に圧倒されて再び立ち上がれない人もできますが、逆にかえって、その人の魂が歓喜の大火災となって燃え上がる人とができます。何によってその様な相違がでてくるかといいますと、自己内在の神性の自覚が消えない埋火になっている人は、その魂が大火災となって燃えあがりますし、その自覚の火力の弱い人は、罪の意識という煙に、生命の火種さえも押し消されて絶望のうちに倒れるのであります。

 谷口雅春先生は、人の魂を救う宗教家というものは、この「罪の意識」の取り扱いには、賢い智恵を必要とすることを述べておられます。「罪の意識」に伴う不安は、魂の内部の不調和だということができるのであります。それは、自己の神性に調和しないものが、自分に接触していることを感ずるからであります。

 私達の本性が神性でなかったならば私達の良心は罪に対して不調和を感ずることはないのであります。「良心」とは私達に宿っている「神性(かみなるもの)」の現れであります。この良心の感ずる不調和は、最初は心的存在でありますが、「念は具象化する」という心の法則によって、しだいに現実化してくるのであります。
 その結果として、環境や境遇に不幸な状態が現れてくるのであります。生長の家では常に「肉体も環境もわが念の影」と教えております。ですから、自分の環境も境遇も自分の心の自己審判の結果を現出していることになるのであります。私達人間にとってなさねばならぬことは、神の子としての円満完全なる自己の実相を徹底的に自覚し、その自覚を生活の上に表現することであります。

 

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