大調和について 仙頭 泰 |
「生長の家」の教義の中心となる神示は、「大調和の神示」であります。この神示の中で大切なところは「天地一切のもと和解せよ」「天地の万物に感謝せよ」というところであります。生長の家では、私達が、天地一切のものとの和解が成立する時は、天地一切のものが私達の味方になると教えているのであります。つまり敵と云うものは本来ないと云うことであります。この事は大変大切な事であります。 ですから神示のなかには「天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」と断定して、教えられているのであります。敵を認めて、何とかしてその敵と和解しなくてはならないと考えている人は、すでにその人は心の中に敵を認めているために「認めたものは現れる」という心の法則によりまして、その人の環境から敵と見えるものは、消えないのであります。 「生命の教育」を実施するにあたって注意すべきことは、子供の不完全な状態を認めて、そのうえでこの子供を何とか良くしようと、努力するのでは、子供はなかなか良くならないということであります。教祖と云われる人達が、すべての人間は神聖にして罪本来無しの真理を説きました。ところがその弟子たちのことであります。 「神真理を告げ給う」という谷口雅春先生御著書の83頁に、神はつぎのように示しておられます。 「人間を正しく導くためには、その欠点や悪いところを見つけだして、それを指摘し自己反省せしめなければならないのだというような間違った考えから、釈迦の弟子でもキリストの弟子でも、人間を『罪の子』だとか『罪悪深重にして救いがたき者』として説きはじめたのが間違いであったのである。 『救いがたき者』と言葉の力で説かれるならば、その人は実際救いがたきものとなってしまうのである。一切衆生も、"悉有(ことごとくあるもの)"も皆罪なき仏性をもってその本体とすという真理を言葉で説いて聞かせるところに実相の完全な相(すがた)が顕れ、道が開かれ救われることになるのである。」 −神真理を告げ給う− 不完全な状態をしっかりと心の中に、握っていながら、完全円満なる状態を現すことは出来ないのであります。完全円満なる状態を、現象界に現すには、不完全な状態を、自分の心の中で否定して、放つことが必要であります。そして相手の実相を直視して、彼はすでに円満完全であると観じ、具体的にも相手の美点を認め、和顔、愛語、讃嘆の行動に、自分が移ることであります。 谷口雅春先生の次の御文章を読んでください。 「生命の実相と申候事は此世界が此儘神の國であり人間は其儘神の子なりと申すに候 観ずればそれが現るるものに候 観ぜざれば現るる事なし さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 現象に如何なる悪顕れ候とも 何れも神の作り給える実在には無之候間 気にかけずに 唯実相円満完全なる相のみを観ずれば 結局は円満完全なる実相顕るるものに有之候」 常に人の、物の実相を直視して、その神性仏性を礼拝し続けて、その円満完全なる状態を現象界まで引き出された菩薩が、常不軽菩薩と云われます。私達も毎日の生活の中に、常不軽菩薩行を実行することが必要であります。私達は相手を、尊い神の子であるとして、その神性仏性を、感謝と尊敬と愛情をもって礼拝させていただくのであります。 敵を認めて、それを味方にする為に、赦す方法として、合掌礼拝するのではないのです。敵は本来ないのであって、みんな生命の兄弟姉妹であったからこそ、合掌礼拝し合い、讃嘆し合うのであります。堂々たる合掌礼拝を実践いたしましょう。 釈迦が「山川草木国土悉皆成仏」と云われたように、私達の周囲に現れているものは、すべて私達を生かして下さる神の生命の、佛の生命の現成であったのです。この素晴らしい事実に気がつきました時には、ますます心の底から天地万物に向かって合掌し、ただただ感謝の言葉を出すより仕方がない感激に溢れるのであります。この魂の高揚された感激こそ、私達の寶なのであります。 「神の國は汝の内に在り」とイエスは言っておられます。私達にとって自分の「心の王国」を支配することは大切なことです。如何なる時でも光明面のみを認めて人生を前進するのです。私達のまわりには、感謝すべきこと、喜ぶべきことが、誰でも沢山あります。「なんと輝かしい世界だろう」と、感謝し、讃嘆することです。 谷口雅春先生は「あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、どんな荊棘も切り開かれ、隘路は広い大道となり、調和があなたを取り巻いてくれるのであります。そこにはあなたを信頼する人があらわれ、反感をもっていた人も、味方となり、讃嘆者となり、協力者となって下さるのであります」と、教えてくださっています。 イエスが病気を治された時「お前の病気は重いから治してやるぞ」と云われたことはないのであります。「汝の床をとり上げて、歩め」と云うように、ただ一言「起きよ」と云われただけであります。イエスは病気も見ず、死をも見ずただ実相を直視されたのであります。 生長の家では"現象なし"というのであります。現れている象(かたち)をあると思ってはいけません。本当にあるものは唯"実相"だけであって現れているのは仮の相(すがた)なのであります。ですから谷口雅春先生は「仮の相は(すがた)はニセモノで、ウソの相で本当にあるのではない。本当にあるのでないものは、幾ら現れていても、絶対ないのだから、無いものは唯"無い"で宜しいのだ。それを遠回しに色々と説明せねばならぬことはない。そんなものはない。悪い病気も、放蕩の親爺も、いくらあるように見えてもそんなものは絶対ない、本来無いものをアルと掴むからいかぬ」と述べておられます。 谷口雅春先生は、ここで教えておられますことは、心の世界で「現象」を"つかむ"ということは、いろいろの悩みの種になると、云うことであります。「放つものは生きる」と、生長の家では教えるのであります。谷口雅春先生は、現象にどんな悪い相(すがた)が現れていても、そんなものは「幻」であって本当は「無い」のだと悟ることが大切であると教えておられます。 肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟った時に、そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが出来ると教えておられます。この様に、観の転換が行われたとき、私達は、神の國を見出すことができるのであります。 「大調和の神示」の中には、「天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である」、「感謝し合ったとき本当の和解が成立する」、「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いをうけるであろう」と、この様に示されているのであります。実相を直視して、徹底感謝の生活をすることが、大調和の世界を顕現する為には大変大切な事なのであります。 |