ヨハネ伝について

仙 頭   泰
        

 ここに谷口雅春先生がお書きになりました「ヨハネ伝講義」と題する本があります。この「はしがき」のなかに、キリスト・イエスの霊的人格に触れる為には、「ヨハネ伝」を数十回、数百回読んでキリストの生命に直接触れなければならないと述べておられます。そして「ヨハネによる福音書」は、キリストの福音書の中で、最も霊感的なものでなると述べておられます。

 「ヨハネによる福音書」の第十四章十二節につぎの様に書いてあります。
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」

 谷口雅春先生は、ここで次のように書いておられます。
「わたしは、どんな既成のキリスト教会にも属しないが、わたしは独自の霊感によって聖書に接し、キリストの生命に触れたのである。そして誰よりも深くキリストを信ずる者である。それ故に私たちのグループ、キリスト自身が証言したとおりに『キリストがなせる如き奇蹟(わざ)を為し、かつ之よりも大いなる業をなしつつある』のである。

 私はイエスと共に、『わが言うことを信ぜよ、われは父にをり、父は我に居給うなり。もし信ぜずば我が業によりて信ぜよ』と言うことができるのである。」

 「ヨハネによる福音書」の第六章の五節のところを開いて読んでみましょう。ここには五千人もの群集があつまってきました。そしてこれらの人々は、イエスに随喜渇仰してなかなか其処を立ち去らなかったのであります。そこでイエスは、ピリポに「どこからパンを買ってきて、この人々にたべさせようか」と言われました。

 そうしましたら、ピリポは「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」と答えました。イエスご自身は、どうしたらこの群集を養うことが出来るか、知っておられましたが、ピリポをためそうとして言われたのでした。

 この時に、アンデレがパン売りのこどもを見つけました。そしてイエスにつぎのように言いました。「ここに大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう。」

 谷口雅春先生は、ここに人生問題の深い面に触れる教訓があると、教えて下さいました。それはピリポもアンデレも現象面ばかりを見て、「欠乏、欠乏」と思念をしている事であります。ではその時にイエスはどうしたかと云うことであります。

 その時に、イエスは「人々をすわらせなさい」と言われたのです。谷口雅春先生は、人々が草原に素直にすわったこと、まずこの事が必要なことであると述べておられます。つまり「静かに坐してわが神なることを知れ」という聖句の通り、問題が起った時あわてふためいて立ち騒いではならないのであります。静かに坐して神の方へ振り向かなければならないのであります。

 そして、イエスはどうされたかと言いますと、次のように書いてあります。
「そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」

 谷口雅春先生は、ここにも書いてあるように、現在与えられているパンが幾ら少量であろうとも、その現在の恵みに先ず感謝することが、次の供給を得るところの最初の条件なのであると教えておられます。そしてこの後イエスは次のようにしています。

 「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子達に言われた、『すこしでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」

 つまり、今与えられているところのたった五つのパンと二尾(ひき)の魚とを感謝してみんなに分け与えられましたら、食べ余ったパンの残りが十二の篭に一杯なったと云うのであります。大抵の人は、そんな馬鹿なことがあるものか、それは比喩的な物語であって本当にあった事実ではあるまいと言うのであります。

 谷口雅春先生は、「神の恵みは分け与えれば無限に殖えるということは事実であって、私はパンを五千人に分けたことはありませんが、真理の書物を五十万人にも五百万人にも分かつことによって、与えたよりも富んできた実例をもっているのであります」と、述べておられます。

 ここで谷口雅春先生は、次のように述べておられます。
「イエスがたった五つのパンを五千人に分けて不思議なことをして無限供給の実際を現して見せたのは、決して信仰をしたら、こう云う現世利益があるというようなことを示さんが為ではなかったのであります。『父の家』即ち『実相の家』には無限の供給が本来ある。それを悟らしめんがためであります。それなのに『あそこへ行くとお蔭がある』と、現世利益のみを目的に喜んで人々がやって来るのをイエスは非常に苦々しく感ぜられたのであります。」

 「ヨハネによる福音書」の第六章の二十六節、二十七節には次の様に書いてあります。
「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。」

 谷口雅春先生はこのイエスの言葉の意味を次のように教えて下さいました。
「そんな物質的の御蔭、そんなことを喜んで追っかけて来ると云うことでは、私の本当に伝えたいことをお前達は知っていないのである。永遠の生命――それを私は与えたいと思ってやって来たのである。肉体の生命はいくら長寿しても百年余の生涯である。そういう朽ちる寶のために働いては、働き甲斐がないのである。肉体が死ぬときにも、持って行ける寶――永遠の生命に到るための糧として働け。これが自分がお前達に与えようとする寶である。肉体を養うパンなどの問題ではない。」と言われたのであります。

 集まって来た群衆は現世利益が欲しいのであります。
二十八節「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』」
二十九節「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」
 三十節「彼らはイエスに言った、『わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは、『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです』」

 モーゼが群衆を連れて荒野をさまよった時に「マナ」と云うものが天から降って来てそれを食べた、と云うことが旧約聖書にあるのです。このことについてイエスは次の様に言っているのです。
 三十二節「そこでイエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーゼではない。天からまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである』」

 このところについて、谷口雅春先生は次の様に説明しておられます。モーゼが群衆を連れて荒野をさまよった時に「マナ」と云うものが天から降って来てそれを食べたと云うことが旧約聖書にあるけれども、そのような、実際肉体のお腹がふくれるようなパンは、本当の天よりのパンではない。現世利益は今あるかの如く見えていても、それはしばらくして消えてしまうものである。

 天よりの真のパンは、永遠の生命のパンであって、永遠に消えないものでなければならない。「わが父は天よりの真のパンを与え給う。神のパンは天より下りて生命を世に与うるものなり」と言われた。この「天よりのパン」「神よりパン」と云うものは何であるかと云うと、吾々の生命の実相なのであります。実相、仏性、神性と云うもの、それを知らさんが為にイエスは来たり給うているのに、大衆はそれを知らない。

 肉体的にのみ生きている人々にとっては、自分の生命は物質のパンで生きているように思っている。しかし「人はパンのみにて生くるに非ず、神の口より出づるコトバに依る」と、イエスが言われたように、神より出たる生命波動で生きるのであります。

 すべての人間は、皆、神の子でありまして「神の口より出づるコトバ」即ち神性が宿っているのであります。しかし当時はキリストだけが、自己内在の神性を自覚していましたから、先ず自らを「神の子」だと宣言せられたのであります。そうしてこの「神の子」の自覚を万人に与えたい、そのためにこそイエスは伝道に苦労せられたのであります。イエスが説教されると、「われは神の子である」という実相の響きに触発されたものは、飢えず渇くことがないのであります。

 自分のうちに矢張り仏性がある、神性がある、自分は神の子だ、佛の子だと云うことを悟った者は、永遠に飢え渇くことのなきものであります。自分の内から無限に湧き出る富と云うもの、無限に湧き出る生命というもの――それを自覚しなければならないのです。この自覚を与えるためにイエスはこの世に来られたのであります。

 三十八節「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためでなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
三十九節「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。

 イエス・キリストとは自分の心を実行するために、この世に来たのではなくて、「人間・神の子」の警鐘を、神が打たしめられる為に、この世に来られたのであります。人間を実相に蘇らせる、自分の内に宿っている仏性、神性と云うものに蘇らせるためなのであります。今までは人間は物質の塊である、肉体である、こう思って「神の子」の自覚が眠っていた。この眠りから、目覚めさせるのがイエスの使命なのであります。

 私たちすべての人間は、霊的実在であり、神の最高の自己実現であるとの人間の実相に、蘇らなければならないのです。この肉体は、本来ないものであると知った時が、今までこの肉体こそ自分であると思っていた迷妄の、最後の日なのであります。この迷妄が破砕されたその時に、霊的実在としての本当の自分に蘇るのであります。この迷妄の「終りの日」は、霊的実在へのよみがえりの素晴らしい日なのであります。

 生長の家の立教の使命とする人類光明化運動は、先ず第一に「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)」をすべての人々のうちに開顕し確立する事によって光明化する運動であると教えています。人生の目的については、「霊魂進化の神示」のなかで「神の子なる人間の実相を現象界に実現するのが人生の目的である」と示されています。

 キリストの再臨および最後の審判については「最後の審判の神示」を拝読してください。
                          (終わり・225・9)  



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