新しき人間観

仙 頭   泰


 生長の家では、人間観の確立について力を入れて説いています。私達の住む社会を明るく、住みよいものにする為には、どうしても「人間」というものが正しく把握されることが必要なのであります。つまり唯物的人間観から、霊的人間観に変わらなければならないのです。

 私達は「今生きている命」の問題を解明しなくてはならないのであります。今ここに生きている生命を救うことができないで、死んでから救うといってもそれは分からないのであります。ところで私達が、今救われるということは「いのちの自由」を得るということです。私達の中に生きている命が本当の自由を得ることです。すべての悩み、苦しみ、もがきの縛りから脱け出して、自由自在の境涯にでることです。

 人間を罪深いものと考えていた自分の、いままでの「観」から脱けだして、罪も悩みもそんなものは何もない円満完全なる「本当の自分」に心がクラリと変わってしまうことです。人間とは、「罪ある肉体」であると思っていたのを、「罪なきところの神の子」であるという自覚に、360度の観の転換をすることです。自分を物質的存在であると考えていたのがそうでない。「神の子なる霊的実在」であるという大自覚に転換することが、これが「悔い改め」であります。この悔い改めが出来た人こそが「天国は今ここに、この生活の中にある」人であります。

 聖書の「ヨハネによる福音書」の第三章に、ニコデモと云うユダヤの長老がイエスのもとに来て、イエスに問答をしたことが書いてあります。この第三章三節に「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の國を見ることはできない』」。

 ニコデモは年を取ってしまったのにどうして生まれかわることが出来るか、疑問を持ちました。ですから当然のこととして「もう一度、母の胎に入って生まれることが出来ましょうか」と、イエスに質問したわけです。この時、ニコデモは、肉体の五官を通して人間なるものを把握していたのであります。それに対して、イエスは五節から八節に答えておられます。

 「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく、だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思うままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。』」
 谷口雅春先生は、このことを次のように説明してくださいました。
水と霊とによりて生まれなければ神の國に入れないと云うのは、水に大変重点を置いたようでありますが、イエス時代の洗礼は、現代の教会でやっているような簡単な形式ではないのでありまして、ヨルダン河に頭から全身を悉く沈め、肉体を全没せしめて肉の無を実証し、霊によって蘇生せられたのであります。

 肉体の否定を通してのみ本当に「霊によって復活する」ことが出来るのであります。その真意を知らずして、形式だけで頭から水滴を振りかける如き洗礼をしても何の効果もないのであります。尤も、形式も、それに内在の意識を伴うとき、重大な効果をあらわすことになるのであります。お花でも、茶道でも、その他の芸術でも、先人の造った形式から入って行く、此の形式を貴ぶと云うことは、先人の「道を習う」と云うことであります。

 先人はその道によって、自己内在の奥儀を最も完全に表現しました。その「道を習う」と云うことによって、吾等は「自己内在の奥儀」(宗教的には神性、仏性。芸術的にはコツとも云うべきもの)を最も容易に導きだして来ることが出来るのであります。キリストみずから神の子であるのに、ヨハネの洗礼を受けられたと云うことは、これは如何にキリストが先人の型を尊重し、如何に優しい心持ちをもって、そして其の時代時代に大調和の心を持って臨み給うたかが分かるのであります。

 水によって肉体を沈没せしめて肉体の無をあらわしても、霊の洗礼によって自己を「肉」より「霊」に置き換えなければ、神の國に入ることは出来ない、「肉によりて生まるるものは肉なり」、この肉体をそのままで「神の子」などと考えたら見当ちがいなのであります。

 「生れ更り」と云うことを、肉体的なことと考えては無論いけないばかりか、それを精神(頭脳精神)の問題だと考えて無駄であります。肉についた本能の心や、知性や潜在意識や、そんなもので「神と一体」だなどと考えただけで「神の子の自覚を得た」などと考えると、それは増上慢であります。神の子の自覚は「霊によって更生する」、唯神との霊交によってのみ得られるのであります。

 一遍母の胎内に入って生まれ変わってきたとて、そんなことは肉体的のことであって霊的自覚でも何でもない。物質的にのみ考えていたならばとても「霊による更生」は分からない。それは恰も風があそこに吹いたり、こちらに吹いたり、好き気ままに吹いているけれども、そして響きは聞こえるけれども、どこから風が生まれ何処へ行くのだか、それは分からない。物質界のものでも眼に見えないのはそんなものである。況や幽の幽、玄の玄なる「実相生命」と云うことが分かるのは、霊的自覚によるほかはない。

 ニコデモは自分自身を肉の人間だと思っているのに、イエスは、自分自身を霊の人間だと思っているのだから、ニコデモにはさっぱり訳が分からないのであります。そこでニコデモは九節でつぎのように述べています。「ニコデモはイエスに答えて言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか』」。このあとイエスは「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上がった者はない」と言っています。

 この場合の天とは、地に対する天ではないのであります。この現象界に対する実相世界のことであります。実相の生命がそこに現れているものだけが、実相の天国に入ることが出来るということです。つまり凡夫が修行して佛になるのではなく、はじめから佛であるところの佛が、佛になるのであります。佛の世界から出てきたもののみが佛になるのであります。

 つまり天より下りし者即ち「人の子」(即ち神の子)のほかには天に昇ったものはない
―― 佛の世界から出て来たものの他には佛になる者はないのです。佛が佛になる、神が神になる、そして人間は始めから神の子であり、始めから佛の子である。これが大切な佛の真理なのであります。

 天国とは、ここに見よ、かしこに見よと云うように、物質的世界にはないのであります。神の御霊が自己の内に宿って来て自己の生命となっている事実に目覚めるとき、そこに自己の内に新しき生命の自覚としての天国があるのです。ですから天国とはこう云う形だと恰好を見せる訳には行かないのです。自分の心の内にあるのです。自分の自覚がクラリと転換したところに、そこに天国があり、神の國があるのであります。

 生長の家では、「罪は本来無い」と云います。肉眼で見て、この様に人間に罪があるとか無いとかと云うことをいっているのでは、ニコデモに類する人であって、そういう人は、生まれ更りの出来ない人であります。生長の家で、「罪がない」と云うことは、「罪は実在ではない」と云うことであります。罪が本当にあるものならば、誰が罪を滅ぼそうと思っても、罪を滅ぼすことは出来ないのであります。ところが、罪と云うものは本来ないものであって、仮にあるかの如き相(すがた)をして、現れているだけのことであります。

 闇はあるように見えますが、その正体を見てやろうと、明るみに持って行って太陽の光線で照らすと、もう無いのであります。闇はあるように見えても、それはないのであります。罪はあるように見えてもないのです。業も因縁も矢張り罪の名前を言い換えたもので、同じことであります。罪や業や因縁があるように見えてもそれは、ただあるように見えているだけですから、本当にある光の力によって闇を消す如くに、罪を消す為に出現したのが宗教であります。

 人間の本当の相は、霊的実在であって、肉眼では見ることが出来ないのであります。谷口雅春先生は、つぎのように私達に教えておられます。
肉体を人間であると見ている限りは、吾々は飯も食べている、生物を殺している。黴菌も殺している、牛肉も食べている、人殺しもやっていると云うのが、之が人間なのです。

 併しそんなものは本当の人間ではない。本当の人間は、神そのままの相(すがた)なのであります。ここにまた「本当にある」という問題が出てくるのであります。「本当にある」と「顕れている」との区別は哲学上重大な問題であります。この「本当にある」と「顕れていても本当はない」との問題が了解できなければすべての宗教の真髄、生長の家の解く真理は本当は判らないのであります。

 吾々は今まで虚の人間を本当の人間だと思っていたのであります。肉体の人間を、虚の人間を、無常の人間を、常に移り変わる人間を、本当の人間だと思っていたのでありますが、本当の人間はそんな肉体の人間ではない、神の分け御霊である、「キリスト吾にありて生くる」のである。釈迦牟尼佛、吾にありて生くる」のである。こう云うことが本当に悟れるのが、信であり悟りであります。

 そこで「因縁」とか「罪」であるとか云うものが、本当にあるとしましたならば、それは吾々がどんなに、人間の力で磨いても取り去れる訳はないのであります。生長の家では、神様が罪も因縁も業も、そんな悪しきものを造り給わないから、本来ないのであると説くのであります。それは丁度「闇」のようなものであって、「闇」はあるように見えても光を与えれば消えてなくなる存在なのであります。つまり罪とか因縁や業を消す為には、吾々は只実在の光の方に振り向けばよいのであります。

 つまり吾々の心がクラリと、光の方に一転すればよいのであります。吾々は神の子であって、すでに一切の罪も悩みも無いところの神のいのちの流れが宿っているという、本当にある自分の相を自覚すること、これこそが本当の宗教的救いであります。

 太陽がこの地上を遍く照らしていましても、吾々が眼をつむっていればそれが分からないで暗いと思っているのと同じことであります。眼を開いて見た時に、はじめてこんなに輝いている太陽があったと云うことが分かるのであります。分かった時に本当の明るい世界に出てくるのであります。

 明るい世界は、吾々が出てきた時にはじめてあるのではありません。既に前からあったのですが、眼を開かなかったから、仮になかったにすぎないのであります。吾々は実相の世界に対して心の眼を開けばよいのです。イエスの罪の消し方は言葉で「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」と云われました。ただそれだけであります。

 私達の心臓は、私達が心臓は何故動くかとその理由を考える以前から動いているのであります。本当のいのちの営みと云うものは、人間の理屈の狭い範囲の中にいるのではないのであります。いのちの世界は、理屈や知識以前の世界であって分析でなりたっている世界ではないのであります。

 吾々のいのちの内部からの絶対的な至上命令というものが出てきて、どうしても善を行ぜずにはおれないのであります。内部に宿る至上命令こそ本物の自分自身なのであります。この内から叫ぶいのちの叫びに従順に従うときに、はじめて本当の自分のいのちを生かすことになると、谷口雅春先生は説いておられます。霊的実在にして久遠に生き通す、円満完全なる生命の実相を自覚し得たいま、この魂の歓喜をもって、人生をますます明るく、力強く前進していきましょう。
                          (終わり・220・4)



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