神癒に関して

仙頭 泰


 今回は神癒に関して学習します。テキストは、谷口雅春先生の「神癒への道」と題する御本であります。この中で谷口雅春先生は「真理をただ知るだけでは何もならない。法則は使わなければならない。法則を実践しなければならぬ」ことを説いておられます。

 神癒の根拠となる哲学は、宇宙には唯一つの「心」または「生命」があり私達はその中に住んでおり、それに取り巻かれており、それは私達の想念に応じて感応交流するものであり、私達の想念の相(すがた)に一切のものを造り出してくれるものであるという世界観であります。

 従って私達の想念を変化することによって、自分の環境を変化し、病気を治癒せしめ、自分の経済状態を変化せしめることが出来ると云う、大変楽天的な世界観であります。この現象世界は、観ずる通りに現れる世界であります。私達が、如何なる観を持つかと云うことは、大変大切な事になります。

 この世界観によれば、現象世界の奧に「実相」または実在の世界を認めるのであります。病気がよくなったり、経済状態が好転したり、環境が良化したりするのは、現象界の事であって、それは私達の想念の反映なのであります。その想念の奧に、完全円満なる実相の世界があり、また完全円満なる実相の人間があるのです。

 「実相の人間」はたとえ「現象の人間」が病んでいても、貧乏で苦しんでいても、環境の不調和で悩んでいても、その様な病気も、環境の不調和も、「実在としてはない」のであります。実在の人間は完全である。そして実在のみ実在する。されば完全なる人間のみ実在する。実在は永遠に変わることはない。だから完全なる人間は永遠に変わることなく完全であるというのであります。

 そこで、結局、人間が不完全に現れるのは、現象の問題である。それは現象としての感覚面にかく見えると云うにすぎないのであります。それは「観」即ち「見る」結果です。それは原因ではないのであって、言い換えればそれは主体ではないのであって、ただ主体の反映にすぎないのであります。

 だいたい、肉体と云うものは、それから心の働きを引き抜いてしまえば、それはなんらの想念も、感覚も、経験もまた体験もないものであります。それは一個の大理石で造った人間の像は、消化不良と云うこともない。風邪を引くということもない。全然病気にかかるなどと云うことはないのであります。

 凡そ病気にかかる所の「肉体」なるものは、たんなる物質ではなくして、「物質」+「精神」の働きであって、精神の働きのないものは病気にかかりようがないのであります。「肉体」が単なる物理化学的法則に従って変化する以上の働きをもってをり、いくら消耗しても、あとからあとからと、一定の「人間模型」とでもいうべき形にまで栄養を補給して自然治癒または新陳代謝して行く働きは、「精神的模型」(理念)ともいうべきものに、その「物理化学的変化」が支配され、指導されていることが明らかであります。

 即ちその「物理化学的変化」は、従位であって、「精神的模型」が優位であってその物質的変化を指導するのであります。その指導が誤れると、誤った方向に、肉体の物理化学的変化が導かれて行くために、肉体の病的状態を現すのであります。

 人間の大理石像や、セルロイドの「人間の形」をした玩具が病気にならないのは、それは誤った方向にも、どの方向にも、物質の変化を導いて行くところの指導的精神がそれに宿っていないからであります。だから心のないところの「人間像」は病気にならないのであります。病気になるものはすべて心的作用をもっているもののみであります。

 何よりもまず大切なものは、実在するものは、神のみであることを自覚することであります。従って神よりいでたる所の全ての実在は完全であると云うことを信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福にし、愉快な善き世界たらしむる根本となるのであります。

 私達は、まず自分自身の完全さを信じなければなりません。そして全ての人間を善であると信じなければなりません。全ての存在を神よりいでたる善なるものとして信じなければならないのであります。その正しき信念が確立して現象の世界に影を映してくるところの、自分の健康、周囲の人々の状態、環境、運命等が変わってくるのであります。病気の治癒に、人体の磁気的流動体を利用するものがありますが、この様なものと、超物質的治癒とは異なるのであります。

 はじめに、神癒の根拠となる哲学として説明しましたが、神なる心霊的一大本源体の大海原の中に、発信兼受信装置として、私達の個々の「生命」は存在するのであります。そして自分の心の波によって、何でも欲する所のものを発信すれば、その通りの波が起り、自分の目指すところの場所に、その想念と同じ形のものが現れるのであります。

 人間はただ心の発信装置のキイを押すだけでその役目を終わるのであります。それを形に現してくれるものは、大宇宙の生命の創化作用によるのであります。要するに治療が如何に成就するかと云うことは、大生命の力によるのでありますから、私達はただ間違いなく、正しき「想念の鍵」を押すだけでいいのであります。

 無線電信の放送が、その放送室で行われると万事が完了するように、私達の心の中で、私たちは「善き想念」を起こしさえすれば、「想念の鍵」を押した通りの波が「法則」によって伝えられて、それで万事は完了する様なものであります。自分が遠方にあるところの相手に対して、念力を集中して送念しまければならないと云う様なことは断じてないのであります。
 治療は今ここに於いてこの場所で「念」のキイを押すだけで行われ、あとは「法則」(神力の法則化)が行ってくださるのであります。「念」を送るなどと考えてはならないのであります。「念を起こす」のが私達の役目であって、その念を伝えたり、具象化したりするのは大生命の力であり、「法則」の力なのであります。

 神は霊であり、時間、空間を超越しています。時間、空間を超越すると云うことは、時間、空間が無いということではなくて、「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」とありますように、「無」にして「一切」、無相にして無限相を内在せしめているのであります。

 これを例えてみますならば、ここに朝顔の花の種があるとします。この種の何処を探しても、朝顔の花もなければ、葉もなく、蔓もないのであります。種の中には、いくら探してもないけれども、朝顔の種からは朝顔の花が現れて来るのであります。種の中には、肉眼には見えないですが、理念的存在としての朝顔があるのであります。理念的存在ですから、寸法もなければ、空間をも超越しているのであります。それが環境に従って大きく咲いたり、小さく咲いたりするのであります。

 それと同じように、人間の本質(人間の理念)は霊的存在であって寸法もなく、空間を超越しているのであります。霊なる神の無限内容の一つとしてつくられた「人間の理念」であり、「霊なる神」を媒介として一個の人間は、あらゆる他の人間とつながっているのであります。だから一個の人間の思うことは、他の人間に通ずるのであります。

 この場合、「われは一個の霊として霊なる神と一体であり、従ってわが思うことは霊なる神が思うことであり、霊なる神が彼(病人等)を健全であると見る時は、彼は健全に現れる他はない」と考えるのであります。人間自身の精神力は、霊なる神(宇宙精神)の働きに火をつけるためのマッチの働きをするようなものであって、働き給うのは神ご自身だと云うことになります。

 だから精神統一力も何もいらぬのであります。キリストが「汝の罪ゆるされたり、立ちて歩め」と云われたら、いざりが立って歩いたと同じ様な事が起るのであります。純粋なるメタフィジカル・ヒーリングに於いては、人間は只想念を起こすだけでよいのであります。そしてそれを具象化するのは大生命の働きであるからそれが治ると治らぬとは、想念者の責任ではないのであります。

 私達は、私たちの力で病人を治すのではないのであります。「病者はない」という念を人間が起こす、すると神がその無限の創化力をもってその通りの姿を現象界に顕現してくださるのであります。メタフィジカル・ヒーリングの想念者は相手に対して催眠術をかけるのでも、人体磁気を送るのでもなく、暗示を与えるのでもなく、また病者に対して「健康」の想念をつぎこむのでもないのであります。病者を認めないのであります。ただ彼が神の子であり、すでに完全であるという実相を「観る」だけであります。そしてその「観」をじっと持続するのであります。
 現象に現すには、「持続」は問題となります。それは丁度写真を写すときにカメラのピントガラスに、像を写してじっと持続する様に、心の世界にその相手の完全なる姿をじっと描いて或る期間その観を持続するのであります。するとその観の模型通りに神なる宇宙の創化作用がそこにその形を実現してくるということになるのであります。

 かくて「時間」は現すための手続きとしては必要であるが現象以前に於いては、念じた瞬間に既に念じた通りになると云うのが本当であります。メタフィジカル・ヒーリングは、特別の霊能者でなければ出来ないと云うものではないのです。誰でも、神の造り給える人間を完全と観ることの出来る人なら、誰でも出来るのであります。

 そこで大切なことは、「実在の世界は完全の他はない」と云うことを書いた真理の書籍を度々読んで、その真理を心の奥底深く知り、毎日、五官の世界に目を閉じて、実相の世界に目を開き、完全なる実相の人間を観る練習をして、心が散乱して完全不完全がこもごもの姿を心の中で、交替に観るようなイライラした精神統一状態から脱却しさえすればよいのであります。

 生長の家では、常に招神歌を唱えます。この事は「わが業はわが為すに非ず」と云う信念を自分自身に喚起し、自分の我の力ではなく、自分に宿る神が想念し、為し給うのであると云う、神の心と一致したところの心境になるために大切な事であります。谷口雅春先生が、如何にして観ずるかを、次の様にまとめておられます。神想観の要領です。始めに、「招神歌」、それから思念して観じます。そして「みすまるの歌」で終わります。

1) 自分自身が霊的実在であることを思念して自覚する。
2) 神癒を希望する人も霊的存在にして完全円満であることを心に描いて自覚する。
3) 「病気あり。不幸あり。貧困あり」等の観念の間違いであることを打破する思念をして、人間は本来円満完全なる神の子である真理を思念で強調する。
4) すでに祈りを受ける人が、自分が彼を観た通りに、完全円満になっていることを実際的に深き感銘を以て観ずる。
5) すでに祈りの成就したことを神に感謝する。

 なんと云っても、私達にとって大切な事は神の子の完全円満なる実相を「観ずる」ことであります。

                              (終わり・229・1)

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