人あらたに生まれずば、 神の國を見ることあたわず 仙 頭 泰 |
谷口雅春先生の「ヨハネ伝講義」をテキストに学習します。 ヨハネ伝の第三章、二節のところを開いてください。ここにはニコデモがイエスに質問しているところがあります。「先生、私達はあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、誰にも出来はしません」。そこでイエスは答えられました。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の國を見ることは出来ない」。 ニコデモは、イエスがいろいろと現象的に御利益ある奇跡が出来るのであれば神から遣わされた先生だとこう思ったわけです。そこでイエスは、そんなことでは本当のことは分かっていないのでここで教えられたのであります。 それは神の國と云うものは、そんな形の世界にあるものではないこと、肉体の五官を通して見える奇跡や、人間の肉体を見てそしてそれに感心をしているようでは、まだ本当の事は分かっていないと云うことです。ですからイエスは、人間は新たに生まれなければ神の國を見ることは出来ないと言われたのです。イエスは「神の國はここに見よ、かしこに見よと云うが如くにはないのであって、神の國は汝の内にあり」と言っておられるのであります。 イエスは、人間は新たに生まれなければ神の國を見ることは出来ないと言われたわけでが、ニコデモはここでますます見当違いをするのです。つまり「もう私のような年寄りで、生まれかわる事がどうして出来ますか。もう一遍お母さんの腹の中に入って出直して来ることなど、そんなことは出来る筈はありません」と言うのであります。 ここで五節から八節まで、読んでみましょう。 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊から生まれなければ、神の國に入ることは出来ない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それが何処から来て、何処へ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それとおなじである。 谷口雅春先生は、次の様に説明しておられます。 水と霊とによりて生まれなければ神の國に入れないと云うのは、水に大変重点を置いたようでありますが、イエス時代の洗礼は、現代の教会でしている様な簡単な形式ではないのでありまして、ヨルダン河に頭から全身を悉く沈めて、肉体を全没せしめて肉の無を実証し、霊に依って蘇生(よみがえ)らせたのであります。それだから「水と霊とにより生まれずば神の國に入ることあたわず」とイエスは言われたのであります。肉体の否定を通してのみ本当に「霊によって復活する」ことが出来るのであります。 この真意をしらずして、形式だけで頭から水滴を振りかける様な洗礼をしてもなんの効果もないのであります。尤も、形式も、それに内在の意識を伴う時、重大な効果を現すことになるのであります。華道でも、茶道でも、その他の芸術でも、先人の造った形式から入っていく、この形式を貴ぶと云うことは、先人の「道を習う」と云うことです。先人はその道によって、自己内在の奥儀を最も完全に表現したのです。 その「道を習う」と云うことによって、私達は「自己内在の奥儀」(宗教的には神性、佛性。芸術的にはコツとも云うべきもの)を最も容易に導き出して来ることが出来るのであります。 キリスト自ら、神の子であるのにヨハネの洗礼を受けられたと云うことは、これは如何にキリストが先人の型を尊重し、如何に優しい心を持って、そしてその時代時代に大調和の心をもって臨み給うたかが分かるのであります。水によって肉体を沈没せしめて肉体の無を現しても、霊の洗礼によって、自己を「肉」より「霊」に置き換えなければ神の國に入ることは出来ないのであります。 「肉により生るるものは肉なり」、この肉体をそのままで「神の子」などと考えたら見当違いなのであります。「生まれかわり」と云うことを肉体的なことと考えては無論いけないばかりか、それを精神(頭脳精神)の問題だと考えても無駄であります。肉についた本能の心や、知性や潜在意識や、そんなもので、「神と一体」だなどと考えただけで「神の子の自覚を得た」などと考えると増冗漫であります。 神の子の自覚は「霊によって更生する」、唯佛と佛の霊交によってのみ得られるのであります。一遍、母の胎内に入って生まれ更わって来たとて、そんなことは肉体的なことであって霊的自覚でもなんでもない。物質の肉体の全否定のところからのみ神の國(実相世界)が直観されるのであります。 生まれかわりを物質的にのみ考えていたならば、とても「霊による更生」は分からない。それはあたかも風があそこに吹いたり、こちらに吹いたり、好き気ままに吹いているけれども、そして響きは聞こえるけれども、何処から生まれて何処に行くのだか、それは分からない。物質界のものでも眼に見えないものは、そんなものであります。況や幽の幽、玄の玄なる「実相生命」と云うことが分かるのは、霊的自覚による他はない。ニコデモは自分自身を肉の人間だと思っているのだから、ニコデモにはさっぱり訳が分からなかったのであります。 ここで「至上者の神示」から、抜粋します。この神示の始めのところに次ぎのように示されています。「人即ち神であると云う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此の世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。 自己を神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。 かくの如く想像する者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるものである。」 「本当の謙遜とは『自己は神よりいでた神の子である、従って神そのもののほか何者出もない』と言う真理を何らのさからいもなしに承認することである。この真理を承認するものを謙遜と言い柔和という」 この神示には、釈迦にしろ、イエスにしろ、自己内在の無限性を掘り下げてついに仏性に達し、神性に達したから、霊界の諸霊来たってこの二聖につかえたと示されています。イエスは「自分は神の子である。実相そのものである。霊そのものである」と云うことは、直接認識によって直接知ることなのであることを、ニコデモに言っているのであります。 「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」と十三節に述べています。ここに天と云うのは、この現象界に対する実相界のことであります。実相の生命がそこに現れているものだけが、実相の天国へ入ることが出来ると云うのです。つまり凡夫が修行して佛になるのではない。始めから佛であるところの佛が、 佛になるのである。佛の世界から出て来た者だけが、佛になるのである。 つまり、天より下りし者、即ち「人の子」(即ち「神の子」)の他には天に昇った者はない ―― 佛の世界から出て来たものの他には佛になる者はない。佛が佛になる、神が神になる、そして人間は始めから神の子であり、始めから佛であるのであります。 これが大切な真理なのですから、その真理をイエス・キリストは自己の直接体験の真理としてしっかりつかんで、「我ら知ることを語り、また見しことを語るのだ。理屈を述べるのではないのだ。人間は神の子であると云う自分の直接認識の真理を語るのだ」と強い語調でもって語っておられるのであります。 (終わり) |
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