不来にして来る

仙 頭   泰


 釈迦が出家されたのは、生・老・病・死の四苦を解決せんが為でした。そして密かに王宮を逃れ出て、ウルビルワという処の山林の中で生活し、瞑想に耽られました。六年間の苦行の後、山を下られて尼連禅河のほとりの菩提樹の下で、座禅をくんで瞑想をしておられました。

 そこにバラモンの乙女が、牛乳のおかゆを持って来て、釈迦に供養しました。その時に、今までにない感動で、天地の恵みと云うものを感じられ、感謝する心が起こった時に、釈迦の見る世界が今までと異なる美しい輝きをもって感じとられたのです。

 暁の明星の神秘なる輝き、将に明けゆかんとする空に白雲の漂う有様、山々の曲線の美しさ、まさにさし昇ろうとする太陽の光を受けて、山肌の色が薄紫に、それから茜色に、色々と変わっていく。遠景・中景・近景と重畳(チョウジョウ)する山並みを見ていると、その美しさは只の物質ではなかった。

 この時釈迦は、この世界は単なる物質ではない、佛の生命(いのち)の現成である−「山川草木国土悉皆成仏」と悟りを開かれたのであります。即ち釈迦は、生物界のものも、鉱物界のものも、心あるものも、「今此処」の絶対時間に於いて悉くそれらは皆真理が実現しているのである。これが宇宙の真理であると悟られたのであります。

 この真理が実現しているところの、完全世界にどうして、殺し合いや、弱肉強食の争いの世界が現れているのであるかと釈迦は考えられた時に、この世界は真実・実在の世界ではない、妄想の現す世界だと云うことを感じられたのであります。この五官に視えるところの不完全世界は本来ないのである。その不完全世界の奧に、全てのありとしあらゆるもの、生きとし生けるものが時間の流れを越えた瞬間、絶対の今、真理が実現している完全世界の実相があるのだ、と云うことを悟られたのであります。

 人間は「神の最高の自己実現」であり、「霊的実在」でありますから、一番高級な高度の霊的波動を発しているのです。だから人間の心が変われば、その影響を受けて、生物界の一切の状態が変わると云うことも起こるわけであります。旧約聖書の「イザヤ書」に人間の心が変わったら、ライオンは羊と仲良く藁を食って生活するようになると載っているのです。そして子供とまむしが仲良く遊んでいて、まむしの穴の中へ子供が手を突っ込んで、まむしに戯れても、まむしは人間を害することはないようになるのであると、そう云う大調和の世界が現れてくるのだと預言されています。これは「維摩経」に「菩薩、心浄ければ佛土浄し」とあるのと同じことであります。

 さて私達はこの世に、人間として生まれて来たと思い、この肉体を本当の自分だと勘違いをしているのであります。私達はこの世の中にはいないのであります。まことに来たらずして来ているのであります。それは丁度この世界は、テレビのブラウン管みたいな世界であって、テレビの中に姿を現しているのは、ブラウン管の中へテレビ・タレントが出て来ているのではなくて、テレビ・タレントは放送局のスタヂオに居るのであります。テレビ・タレントは放送局に居ながら、テレビのブラウン管に姿を現しているのであります。

 テレビ・タレントは来たらずして、テレビの中に来ているのです。「来たらずして来ている」人間は、この世界に生まれずして生まれているのであります。まことにもこの現象世界は、テレビの画面の様なものであります。テレビの画面では、人間が死んだり、傷ついたりしましても、その画面の人物になっているテレビ俳優は、死にも傷つきもしないのであります。

 それと同じく、人間は現象界では生・老・病・死の姿を現しますけれども、吾々の本体は常に実相の世界に住んでいて、死なず病まずでいるわけであります。人間はその様に実相の世界に住んでいながら、現象の世界に姿を現しているのであります。だから来たらずして来たり、生まれずして生まれているわけなのであります。吾々は、この世界から姿を消しても、人間は死ぬのではないのであります。

 テレビ劇で殺人があったり、自殺があったり、身投げあったりしても決して放送局にあたる"実相世界"の人間には、未だかって殺人もなければ、殺し合いもない、自殺も、何もない――と云うのが現象と実相との関係であるわけであります。私達は谷口雅春先生の御著書「真仏教の把握」を熟読して、このことを深く理解するために学習致しましょう。
                           (終わり・230・2)


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