本来人間は男女性なく悉く如来身 仙 頭 泰 |
谷口雅春先生の「真仏教の把握」と題する御本をテキストにして、学習をいたします。 小乗仏教では、女は罪深くして、成仏出来ないと云う風に説かれてあったのですが、「法華経」では、女人成仏が説かれています。それが「維摩経」では女人にして女人にあらずと、男女性を抹殺して、男も女も悉く如来であると説いてあります。 私達が男に生まれ、女に生まれているのは仮りの相(すがた)であって、私達はどちらの姿にでも生まれ変わることが出来るのであります。これは心霊学でも、霊界通信を根拠にして、そのように説かれているのです。人間はある時は女に生まれて来て、女でなければ体験することの出来ない体験を通して、神の子・実相の中の或る特殊の部分の属性が磨かれて輝き出ることになる。 例えば、女になって生まれて結婚をして、人妻となることによって、妻と云うものは如何に生活すべきか、と云うことを実地に体験してその方面の智恵を磨かれることになるのです。このようなことは、男にばかり生まれておったら、何時までたっても、知ることの出来ない智恵なのです。 女と生まれてお母さんになって、赤ん坊にお乳を飲ましてやる、その母親としての愛情とか悦びとか云うようなものは、本当に女に生まれて来て、そういう体験をしなかったならば、その方面の魂は磨かれないと云うことになるわけです。だから人間は、"神の子"であるが、或る期間は女に生まれて、或いは娘となり、或いは母親となり、又或いは妻となり、そうしてそういう体験を通して実相の中にある諸相が磨き出されるのです。 或る人が、「観世音菩薩は男か、女か」と質問をしました。観世音菩薩は男にあらず、女にあらずです。観世音菩薩はただ陰と陽不二の佛身であり、慈悲身であり、智恵身であって、金剛不壊身であり、実相身であります。人間もそのように、神の子であって、男にあらず女にあらずであります。 人生は神様が実相の放送局から放送をして、現しておられるところの放送ドラマであります。そのドラマの中に於いて、「お前はこういう役割をやれ」と云われているのが、即ちその場に於けるその人に与えられた配役であり、使命であると云うことです。女性に生まれたら女性らしくあること、男性に生まれたら男らしくあることが、それが神様から与えられた配役に忠実だと云うことになります。私達は、色々の体験を通して、愛が深まり、智恵が深まり、魂が進化向上するのであります。 みんなそれは神様の摂理であり、神様のお計らいの智恵と愛の中に包まれて生かされて、私達の魂は無限生長の道を歩んで行くのであります。人間の主体は、佛性、即ち如来なのであります。聖経「甘露の法雨」の中に「心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り」と書いてありますが、人間の肉体は「心の糸」を以て拵え上げた繭のようなものであります。即ち"さなぎ"が入っている繭みたいなものであります。 別の表現をすれば、肉体と云う宇宙服を着ている様なものなのであります。ですから、私達の霊が地球に生まれて来ますと、霊だけが動く時の様な、自由な活動は出来ないのであります。だからどうしても肉体以上の働きを求める為には神様の智恵を得て、神様の力を得て仕事をしなければ、充分の働きが出来ないと云うことになるわけであります。 肉体は一種の心の波動の現れでありますから、常住の姿の無いものであります。だからと云って、肉体をどうでもよいと軽んじてはいけないのです。心の奏でる音楽の様なものですから美しいリズムとし、妙なるメロディを演奏しなくてはならないのであります。この音楽を演奏する指揮者が私達の霊魂であり、霊魂が主体となって、心の音楽を奏するのであります。 無論、肉体は物理化学的法則によって動いている。それはピアノの弦や、弦が物理的に振動して音を発しているのに似ています。然しその音を妙なる節度をもってリズミカルにその振動を制御して行くのが音楽家の使命なのであります。 私達の霊魂は、"肉体"という波動体の音楽を立派に演奏して行く音楽家だ、と云うわけなのです。その使命を完うする為には、私達は毎日、怠らず神想観をして、全知にして無限の善なる神様のリズムに合うような、心の波動になるように調律しなければなりません。 私達の肉体は、生命が奏でるところ楽器であると同時に、音楽そのものでもあるわけです。その楽器はうまく調律しなければいい音楽はうまく調律しなければいい音色を出すことは出来ないのです。その調律する方法が神想観なのであります。私達は心の調律を忘れて、調子外れの音楽を弾奏しておったのでは、どんな天才音楽家でも立派な音楽を奏でることは出来ないと云うことになるわけであります。 真理と云うものは、頭では"分かった"と思うけれども、真理は頭で分かっただけでは足りないのであって、矢張り神想観をして全身全霊をもって味到し、体得しなければならにのであります。肉体は本来"不生"であって無いのであります。"無いもの"を掴む心を捨てなさい、本当にあるのは"善なる実相"のみであります。実相は肉眼には見えないけれども、私達の本体即ち、完全な実相の自分が今ここにいるのです。 私達が神想観を実修して、その実相の通りの心の波動がこの肉体と云う楽器に、完全なる音楽を演奏する時、心の糸の奏でる音楽が具体化して自然に、"肉体の繭"の姿を自己修正してすべてが善くなるのであります。 (終わり・227・11) |
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