「うちなる力」を信ぜよ

仙頭 泰


「生命の実相」の第八巻に、つぎのような言葉が書いてあります。「食事にうんと喜びのお惣菜をつけて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養食に変わるのだ」――つまりこの逆を云えば、どんな栄養のある食物でも、腹を立てながら食べたり、悲しい心で食べたりすれば、それは身につかないことになります。つまり食物が、のどから腹の中を通って、そのまま外に出てしまうことになります。ロシヤのパブロフの犬の実験で、犬の胃袋を切り開いてゴム管をつけ、胃液の分泌を調べたものがあります。

 誰でも楽しい心の時には良質の胃液が豊富に分泌されますが、怒ったり悲しんだりする時には、胃液が殆ど分泌されないということです。ですから、子供を健康に育てるには、子供を取り囲む環境をたのしいものにするのがよいのです。楽しいという状態は、大人と子供では違うものです。一般的に云うならば、子供は自由に伸び伸びと生活することを、楽しむものです。

 さて食事の時に、親が食事の小言を云いながら食べますと、子供は親の言葉を信じ易いのですから、親がこんなに小言をいう食事は排斥すべき食べ物であり、栄養価値のない食物だと思いこんでしまいます。排斥する心は消化する働きや、体内
の吸収する働きを、鈍らせることになります。ですから体に良くない結果をつくります。親は常に食物に本当に感謝して、これは体の為になる食物であるとして、食べるようにすれば、子供もそれを真似て何でも感謝して食べるようになるのです。

 そのつぎには言葉のことです。言葉の発達は知能の発達を意味しています。言葉は柔らかく、そして明瞭なのがよいのです。特に柔らか味を失って棘のあるような言葉を出すことはよくないのです。言葉は創造力をもつものです。つねに明るい、よい意味を持った言葉を使用することが大切です。子供に対して常に讃歎の言葉を雨の如く降らして、子供の神性を引き出すようにすることが大切です。

 幼児は言語発達の天才的能力をもっているといわれています。幼児の時から同時に数カ国語を教授しても、頭脳に大した負担なしに覚えるものであります。興味をもっている時に教え込めば、苦労なしに覚えるというのが、幼児教育の原則であるといわれています。幼児は色々のことを尋ねたがって仕方のない年齢があるものです。

 大人は生活に忙しいものですから、子供の質問にいちいち答えておられない時もあります。然しその時に「うるさいね。そんなことはどうでもようじゃないの」といった風に、その質問をけとばしてはならないのです。家庭の中で子供の質問に対して両親がこの様な返答を繰り返し、していると学校へ行っても何一つ尋ねることの出来ない引っ込み思案の人間になることがあります。
 
子供が質問するときには、その事物に対して興味を感じている時ですから、親は自分の知っている限りのことを、教えてやるのがよいのです。一つ覚えれば、更にそのつぎへと向学心が起こるものです。親の知らないことならば「一緒に研究しよう」といった態度を親がとることであります。そして世界にはどれだけでも、知るべきたのしいことが、満ちあふれていて大人になってからでも研究のつきるものでないことを、十分に子供に知らせてやることが大切なことです。

 子供というものは、して悪いといって叱りつけてばかりいますと、大人の見ていない時にますます乱暴を働くことがあります。子供が大人から見て「わるい」と見えることをするのは、子供の立場からは大変興味があるからしているものです。子供には自分のしたことが、周囲に対してどのような影響があるかなどと、考えるところの観察力が広くないので、大人からみればたまたまそれが、大人の都合が悪いというだけのことなのです。

 子供が悪いのではなくて、大人にとってそれは都合が悪いだけのことであります。ですから子供の行動を別の方向へ転じさえしたら好いのであります。子供は大人にたのまれ、大人に信頼されることを、喜ぶものです。命令せずに「これをしてくれないか」といって、他にしてほしいことを頼むようにするのがよいのです。子供の生活環境を出来るだけ明るいもので、包むことをするのがよいのです。

 生長の家では常に善いものを認めて引き出すようにしますが、子供を絶対に叱ってはならないというのではないのです。人に迷惑をかけるようなことをしたり、悪を犯したりするような場合は叱っても悪くないのです。ただ叱る場合に注意しなくてはならないのは、「そんなことをする子供は悪人です」などと、本人そのものを悪人だと宣言するような叱り方をしてはならないのです。もしそんな叱り方をしていますと、子供は自分を悪人だと信じこんでしまい、善になる動機や勇気をなくしてしまうものです。

 子供が過ちを犯したら「あなたは良い子だ。こんな事をするはずの子供ではないですね。悪いと気がつかなかっただけですよね。もう悪いと気がついたら、決して悪いことをするあなたではありません」と、断言してやるのがよいのです。子供の性癖をなおし、成績をよくするには、子供が眠るときに枕もとで「甘露の法雨」を讀誦しながら、眠らせるとよいのです。

 谷口雅春先生は、つぎのように述べておられます。
「甘露の法雨」を讀誦する時に、子供に「甘露の法雨」を聞きながら眠ったら大変成績がよくなり、健康になり、性質もよくなり、色々の性癖もなおり、自然にすばらしい良い子になれるのですよと、子供に言い聞かせて、そして親も敬虔な態度で「聖経の功徳によって、かくならしめ給え」と合掌し、心の中で念じてから「さあ、眼を閉じておやすみなさい。聖経を読んであげましょう」と言って讀誦するのです。

 讀誦が終われば、子供はきっと眠っているから、「さあ、これであなたの成績がよくなりました。○○が上手になりました。身体は一層達者になり、性質はよくなり、××はしなくなりました」と云った様に、眠っている子供の耳に、下腹に力を入れて低くささやきかけるのです。この方法をすれば、子供は必ず健康になり、成績がよくなり、性質も改まってくるものです。

 この様なことは、言葉の力が段々とつもる程、その偉力を発揮してくるので、一回だけでやめてはならないのです。連続してする時に、効果があらわれるものです。いたずらの好きな子供、腕力のある乱暴な子供など色々あります。これらの子供も頭から、圧迫的におさえつけようとすると、益々反抗的に乱暴になるものです。このような子供は案外、人を統率する天分をもっていることもあります。ですから子供の指導の場合にも、この子供の美点をほめ、そして働かせる様にしてやりますと、子供の能力を伸ばすことになります。

 言いつけたことをすぐに実行しない子供の場合には、案外親から言いつけられた言葉の内容が、よく飲み込めなかったり、またいいつけた人に対する反抗があることもあり、また子供自身が手を離すことの出来ない興味ある事を、していたりすることがあります。ですから、言いつけたことを子供が実行しない場合、不従順であるとか、わがままだと、簡単に判断しては間違うことがあります。そこで谷口雅春先生は、この様な場合のことを、つぎのように述べておられます。

 「子供を側に呼んで。やさしくハッキリと言いつけを、伝えるようにすることが必要である。また何時までに実行したらよいのか、その意志表示がないために、すぐ立ち上がろうしない子供もいる。その様な子供には"何分間でやりなさい"とか、"何時までに行って帰って来なさい"とかを明瞭に、その完成の時刻を指定する必要がある。

 反抗心があって命令を実行しない子供に、強情だとか、不従順だとか、と責め立ててみても一層強情になるだけのことである。何故なら彼は親とか先生をてこずらせるのが目的であるから、親や先生が手こずっていると分かると、ますます強情になるからである。命令するよりも"こうしてください"と子供を信頼して頼むような語調が、この様な子供には効果があるのである。」

 さてその次には、二番目の子供が産まれようとする頃になると、はじめに生まれた子供はそれに興味を感じます。そして、自分のオモチャのように、自分の支配下にあることを欲するものであります。ですから二番目に生まれた子供が、自分よりも両親の愛を集めるなどということは、その二番目の子供に両親を自分から奪われると思うのです。そこで一番目に生まれた子供は両親の愛や歓心を自分の方に引き付けるために、熱を出したり、病気になってみたり、時としては乱暴になってみたり、強情になってみたりして、何とかして両親の気持ちを自分の方に引き付けようとすることがあります。
 
この様な状態の時には、両親は子供のこの手段に動かされてはいけないのであります。前に述べましたように両親の愛が二番目の子供だけに、注がれているのではないことを説明して、納得させることが必要なのでああります。この様な状態は、両親が余り子供をかっまてやる習慣をつけたり、始終抱いてやったり、あまやかす習慣がついて、両親から離れて独立して遊ぶ習慣のない子供などには、特に起こり易いといわれています。

 両親たるものは、男の子であるにせよ、女の子であるにせよ、子供は神からの授かりものであり、寶であるとして、常に平等の心でもって子供の神性を礼拝し、感謝を捧げる生活を送るようにするのがよいのです。子供達に対して「私達はあなた達がいるので幸せで、うれしいのです」と、常に子供達に対して、和顔・愛語・讃歎の生活をし続けることが大切です。

                             (終わり・23)

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