人生をどの様に考えるか

仙頭 泰


 この現象世界は「観ずる通りに現れる」世界であります。私達自身が如何なる人生観をもっているか、社会観をもっているか、国家観をもっているか等々によって、自分の、また集団の歩むべき方向が決まってくるのであります。これらの「観」のなかでも一番重要なものは、「人間観」であります。それは政治、経済、文化、教育、芸術等々すべて、これ人間が行っているからであります。

 「人間の幸福のために」とよく言われますが、この時でも人間は如何なるものであるかが、明確に理解されませんと、本当の人間の幸福はやってこないのであります。生長の家の使命は、人類光明化運動をすることであります。その人類光明化運動は、第一に何をなさんとする運動であるかと云いますと、次のように明示してあります。

 即ち「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)」をすべての人々のうちに開顕し、確立することによって、光明化する運動であると定義されています。さて、谷口雅春先生は人生というものを、色々な例えで教えて下さっていますので、それをここに紹介しましょう。

◎ 映画のスクリーンとフィルムの話
 私達が映画を見に行って、夢中になってまるで自分が映画の主人公になったつもりの人もいることでしょう。映画を見て、笑ったり、泣いてみたりすることもあるでしょう。映画のスクリーンの上に映っている姿は、透明なるフィルムの上に色々と描き出されている姿や形が、その通りにあらわれているのです。ですからスクリーンの上の姿は、フィルムを変えれば、また別の姿に変わって映ることになるのです。

 子供の教育にあたりましても、子供の状態は、丁度映画のスクリーンの上に現れている姿と同じものでありますから、そのスクリーンの上の姿が気にいらないものでしたら、フィルムの画を書き換えてしまえばよいのです。そうしたらスクリーンに映る姿はすぐに変わってしまします。

 このフィルムに相当するのが「心」の動きを示しています。嬉しい心になれば万事が嬉しい状態にあらわれて、子供もよい姿に現れてきます。心が悲しめば何事も悲しい状態になってあらわれて、子供も悪い姿になってあらわれてくるのです。ではこの様な心が人間そのものかというと、この様に動揺しているような心は、人間そのものではないのです。人間は本来は、このフィルムの奧にある光り輝く「光源」――これにあたるのものであります。

 光源は常に光り輝いています。現象即ちスクリーンにあらわれた善い子の姿、悪い子の姿に無関係に、光源は光り輝いています。人間の本体は、現象の善悪を超越している絶対善として、光り輝いているのです。フィルムの上に描かれた姿といいますか、透明のフィルムに描かれた曇りといいますか、これらが無色透明であれば、スクリーンに映るものも、ただ光のみということになります。ですから自分自身の心を常に澄みきった浄らかな状態に、保つことに気をつけなくてはなりません。

◎ 太陽と雲の話
地上に雨が降ったり、風が吹いたり、嵐が起こったりします。これは私達の生活に、災難のようなこともあるでしょう、嬉しくてたまらないようなこともあるでしょう。また子供を育てる時にも、子供は色々な行動をいたします。どんなにこの地上が荒れ狂っていても、雲の上には常に太陽が輝く青空があるのです。

 この地上が曇っているのは、雲が曇っている状態をあらわしているのであって、太陽が曇っているのではないのです。ですから私達の人生にどの様なことが起こってきても、太陽の輝く青空のあることを信ずるように、人間の実相は神の子であって完全円満なものであることを常に信じ切る人は、現象の変化に振り回されることなく、心安らかに人生を送り、気がついた時には現象の状態もまた、天国浄土の相になっているものであります。 子供の教育にあたっても、神性・佛性を常に拝み出すようにすればよいのであります。

◎ 泥と泥足の話
「どろ足」が泥水でよごれているように見えますが、本当は足は汚れていないのです。水をかけて泥を洗い流すと、そこには綺麗な足があらわれて来るのです。汚れているのは「どろ」なのです。

 また、別の話――コップの中に泥水が入っていて、汚いと思うのが普通であります。然し、しばらくの間その汚い泥水を靜に置いておくと、泥と水とに自然とわかれてしまいます。汚れていたのは泥だったのであります。水はいつも澄み切っているのであります。

 子供の教育にあたっても、表面に現れた姿を見て一喜一憂するのではなく、子供の奧にある光り輝く素晴らしい神性を認めて、コトバの力でつねに子供のすばらしさを、引き出すことを実行致しましょう。

◎ 水道の蛇口と水道の水の話
水道の蛇口が錆びたのがあります。水道の蛇口が少し傷ついたものもあります。水道の蛇口がいがんでいるものもあります。水道の蛇口がどんな形をしていようとも、蛇口から流れ出る水は清らかな水であります。私達がこの地上に生まれる時に、色々な条件のところに生まれてきます。

 両親のそろっている家庭、片親しかない家庭、両親を全く知らない処など、生まれてくるところが、どんな処でどんな条件のあるところでも、生まれ出た私達は、みな神の尊い生命の地上への天降りであったという事を、忘れてはいけないのです。
私達はみんな一人一人が神性受胎であるのです。この地上に生きていることは、私には私でなくては出来ない使命があることです。あなたには、あなたでなくては果たすことの出来ない使命があるからです。

私達は大いなる力によって生かされていたのです。ですから、毎日を感謝して生活をさせていただくのです。家庭の中の生活も、親子、夫婦、みんなで相手の神性・佛性を礼拝し合うのであります。

◎ タバコの煙の話
タバコを吸う人が、タバコの煙りをプーッと吹き出しました。眼の前がもうもうとして煙たいので、タバコをもった手で一生懸命に眼の前の煙を払いのけました。すると、タバコから煙りが出ているために、眼の前の煙りを払えば払うほどますますタバコの煙りで眼の前はもやもやになりました。

 そこで今度は、タバコを持っていない手で、眼の前の煙りを払いのけます。すると眼の前のもやもやとしていた煙が、たちまちにして消えてなくなるのであります。宗教で、人間を罪人(つみびと)として、脅かしているものがあります。罪人呼ばわりをして罪の消えないことは、火のついたタバコを持った手で、眼の前のタバコの煙を払うのと同じことです。罪は本来ないのですから、「罪なし」と宣言することによって、罪は消散してしまうのです。

◎ 月と山の話
これはお釈迦さまの「涅槃」に関する話からであります。あなたはお月様が西の方の山に沈んで行くのを見て、「アア、お月様が死んでしまった」と思いますか。またお月様が三日月に見えますと、「お月様が悩んで神経衰弱になっている」と思いますか。お月様が東の方から昇ってきた時に、お月様がまた生まれてきたと思いますか。お月様がどの様に見えましょうとも、お月様そのものは真ん丸く照っているのです。

 私達人間は生命の現象としては「生まれて、食って、産んで、死ぬ」と云う、生物に共通な姿をあらわしています。生物学の本などで、生命と云っている場合、生命現象すなわち生命が動いた結果あらわれる状態と、生命そのものとを混同しています。

 生長の家では、常に「現象」と「実相」とを、ハッキリと区別して観ずることを教えています。生命現象としての人間は、あらわれたり、消えたりするけれども、「生命」そのものは不生不滅であります。唯神実相哲学では、人間は神の子であり、本来円満完全なものであるというのであります。

 子供の教育の場合でも、本来の子供のすばらしさ、善さを形の上に現すことであります。もし本来子供が悪いのでありましたら、それを善い子にすることは出来ません。本来、神の子で神性が宿っていればこそ、その内在するすばらしさをあらわすことは、きわめて容易であります。「生命の教育」は人間に内在する神性を観ずることが大切です。ですから「観の教育」とも云われます。

 日本では刀剣の鑑定師を養成するのに一番確実でよい方法は、常に本物の銘刀を見せて、勉強させることであるといわれています。はじめは、よく刀のことが分からなくても、毎日毎日本物の銘刀ばかりにふれていますと、何かの機会にニセモノの刀があらわれてきますと、すぐにこれはニセモノであると、見破ることが出来る鑑定力がつくといわれています。

 子供の教育は、幼い時から真理の話を聞かせて、真理に基づいた生活をして育てることによって、大人になって人生の色々な問題が起こっても、困難に負けることなく、常に光明面をみて人生を元気溌剌として歩む人間になるのです。生命の教育は、神の子のすばらい本質を引き出す教育であります。唯観実相(ゆいかんじっそう)の教育であります。実相の完全円満なる相(すがた)を直視し、それを信じ、その神性を礼拝して、言葉の力によって引き出すのであります。

 人生とは、お互いの神性を拝み合い、お互いの霊性を高め上げあうところの、楽しい地上学校であります。御教えによる「観の転換とその確立」、これをしっかりとやりましょう。
                              (終わり)

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