教育の基礎となるもの 仙頭 泰 |
谷口雅春先生は「教育の基礎となるものは、人間の内部に"神"が宿っていることを信ずることである」と教えておられます。この場合の"神"とは「内在の神性」であり、「内在のキリスト」であり、また「内在の仏性」というものであります。つまり、そこで人間の本来性は円満完全であり、それを信じて引き出すのが教育であります。 教育とは、教え込むのだはなくて、本来の円満完全性を引き出すものであります。そこで「本来円満完全の本性」を引き出すためには、その人に宿る「円満完全性」を信ずることが根本になります。「円満完全性」など無いと信じていて「円満完全性」を引き出すことは出来ないのであります。 その次には、「円満完全性」を観ずることが必要であります。「円満完全性」は「信じて観ずる」ことによって、この現象界にあらわれてくることになります。この現象世界には「観ずる通りにあらわれる」という、心の法則のあることを忘れてはなりません。 そこで、子供の教育にあたっては、常に子供の「神の子なる円満完全なる実相」を観ずると共に、言葉の力を活用することであります。子供に向かって「君は神の子だ。すばらしい能力をもっている。それが段々と一層すばらしくあらわれてくる」と云うように、言葉で激励し続けることが必要なのであります。 谷口雅春先生は、大自然の動きに例えて、つぎのように教えて下さっています。梅の花には、梅の花の咲く時期があり、櫻には、櫻の花の咲く時期があり、牡丹には牡丹の花の咲く時期があるのです。春に咲く花もあり、秋に咲く花もあるのです。この様に、美しい花にも開花期が異なるものです。 人間にも、その知能の開花期は異なるものであります。自分の子供が現在低能児のように見えたり、知能が人とくらべて劣っているかのように見えても、それは丁度、春咲く花が冬の寒い時に、春に花を開く準備をしているようなものです。 どんな低能児に見えている子供でも、やがて優良な知能成績をあげる時がくるのです。どんなに低能児に見えても、低能児といわず、コトバの力を活用してどんな小さなことでも、その子供を認めて褒めるようにして、「あなたはこんなに素晴らしい頭だから、何でも出来ますよ」と、讃歎してやることです。その時に子供の内部にある無限力が次第に現れ出てくるようになるのです。 人の美点を発見して、褒め称えることは素晴らしいことであります。この場合に大切なことは、誠意をもってすることであり、追従をもって褒めることは効果がないのであります。誠意とは「真実を語る心」でありますと谷口雅春先生は教えて下さっています。つまり、真実を語る心で、現在劣等児である子供を褒めることが出来るためには、「人間は神の子であって、現在どんなに劣等に見えても、その真実(実相)は神の子で完全円満である」という正しい信念を必要と致します。この信念がなければ、褒める言葉は空虚な追従になってしまうだけであります。 そのつぎは、教育に「愛」が必要であるのです。問題児といわれる子供に対して「この子供は、こんなに見えていても本来神の子で、有能なる本性が与えられているのに、この様な状態にあらわれているのは可哀相だ」と感じて、ここに深い愛が起こるのであります。勿論この愛には、相手を軽蔑して、哀れに思う同情の愛ではないのです。「本来神の子で完全である」という、根本的な尊敬の念が、ともなった愛なのです。ですからこの愛には追従とか、嫌みとか、相手を見下して馬鹿にしたような嫌な感情を伴わないのであります。 教育の根本は「内在する神性」に眼をさませることであります。ですから「愛」しながら「放つ」ことが必要なのであります。いつも手を引いて歩かせてもらっている者は、いつまでたっても独立して歩くことは出来ないのであります。そこで、相手の中に無限の叡智の「神性」が存在することを信じて、それを言葉に出してほめ、実相円満なるすばらしい状態を観じ、更に言葉の力で鼓舞激励するのです。そして、ある程度まで手を引いたら、あとは自ら起ちあがる力を引き出すように、「放つ」ことが必要であります。 それが「愛深き冷淡」とか「峻厳なる愛」といわれるところのものであります。「君は必ず出来る!一人で出来る!神の子だから必ずそれだけの力は内在する!」といった調子で、断固として、コトバの力によって宣言することが必要なのであります。そのつぎに教育の基礎として必要なものは「恩を知る」という、美徳を養成することであります。自分の、自由の要求を満足させるためには、他の多くの人々の社会的なつながりが、必要であるということが、分からなければならないのです。これを「衆生の恩を知る」というのであります。生長の家では、天地一切のものの恩に感謝することを教えているのです。 教育の基礎は、自分の生命の本源を知ることから、始まらなければなりません。自分が現在このように人として生まれて、生きているその本源に感謝する心を、持つことが大切なことになります。一番はじめに述べてあるように、「人間とは如何なるものか」−この根本が明確に定まらなければならないのです。人間の幸福のために、人間の繁栄のために等々色々と人間を幸福にすると称する方法、またはものがあります。然し「人間」――このもの自身が明確になりませんと、人間の幸せを求めながら人間を不幸にしてしまうことはあるのです。 生長の家では「人間は肉体ではない。人間は神の生命の受胎せるものであって、霊なのであります。即ち人間は神の子であります」と、教えています。肉体は云うなれば「人間なるものの」の、自己表現の道具としての、「革袋」にしか過ぎないのであります。この「革袋」なるものは、まことに精巧に出来ていますので、「革袋」そのものにも、「革袋」自身の快楽をむさぼる心などがあります。それは丁度、人間が犬を番犬として、またその他の道具として使用しますが、犬自身も犬自身の快楽追求の欲望を、持っているようなものであります。 「革袋」はどんなに精巧に出来ていましても、「本当の人間」の自己表現及び、人格鍛錬のための「道具」であるのです。その「道具」にあやつられて、利己的快楽にのみふけり、そのために本当の人間が、堕落するようなことがあってはならないのです。 昔から聖者といわれた人達が「霊と肉との争い」に苦しんだと云われるのも、「本当の人間」(霊)の願いと、道具である「肉体」の欲望とが、互いに相反する場合に痛切に苦しんだのであります。釈迦にしろ、キリストにしろ、そしてトルストイやフランシスなども、この「霊と肉との争い」に苦しみ、そしてついに、霊的要求によって、「肉体」の色々とした追求を克服したのであります。ここに万人が仰ぎ見て、深く慕うところの尊い「霊の勝利」があるのです。 もし「肉体」が「本当の人間」であるならば、「肉欲」を克服することは、「人間」自身の敗北であります。ですから「肉欲」を克服したからとて「霊の勝利」の尊い感情が湧き出てくる筈はないのであります。ともあれ、人間の教育にあたっては、人間の「神性」を引き出すことが一番大切なものになります。「肉体の自由」をのさばらせることをもって、「人間の自由」の権利だと誤解させてはならないのであります。 人間は現象界に生まれいで、男とあらわれ、女とあらわれています。梅が梅のままで、櫻が櫻のままで、それぞれの個性があり、特色のある美をもっています。その様に男性にも女性にも、本質そのままの特長と個性を、発揮することは尊いことであります。男性と女性とは、人生においてお互いに相補ってこそ、美しい人生をつくり出すことが出来るのであります。この現象世界において、自分の運命が他の何者かによって、はばまれ支配されるという考え方から、自分の運命をはばむものに対して、すぐに闘いをはじめるのが多いのであります。 然し自分の運命は、自分の心の持ち方によって展開してくるものであることを知りましたら、何事が起こってこようとも、責任を自分に帰して、他のものを怨むことなく、憎むことなく、そして自分の心の持ち方を反省し、自己を改革し向上させることに、専念するようになれるのです。 一切万事、自分から出発して、そして自分にその結果があらわれて還ってくるものであることを、知らなければなりません。私達は他を責めるのではなく、自己の心境を錬磨して高めあげて行かねばなりません。以上の点を基礎として、教育が行われる時に、人間の内部神性を引き出すところの「生命の教育」となるのであります。 (終わり・23−1) |
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