花嫁の装いをして
 仙頭 泰

                             

 ヨハネの黙示録第二十一章の第一節から第四節に次のように書いてあります。
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みも先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』」

 さて、生長の家では常に今新しく生きることを、教えています。毎日、新しく生まれ更ることを教えています。私達は、毎朝が新生なのであります。私達は何処から新生するかと云いますと常に実相の世界から、ぽっかりと生まれて出て来るのであります。このことが、「新しきエルサレムが、花嫁の装いをして天より降れり」であります。

 「天より」とは、実相から生まれ出ることであります。実相から生まれでたものは実相の延長でありますが、迷いから出たものは迷いの延長であります。今まで、私達の肉体も環境も迷いの延長であったのが、悟ったときに悟りの延長となるのであります。そこには無限のいのちその儘が、ぱっと花咲き出るのであります。

 谷口雅春先生は、「本当に自分のいのちと云うものは、宇宙に満ちている神のいのちが常に新たに花咲きでているのだと云う自覚をもって生活する時、個人は個人として、家庭は家庭として、そこに常に新たなる天と地とが花嫁の麗しき装いをして、否、天国浄土の装いをして天降ってくるのでございます」と述べておられます。

 そして、そこには黙示録にありますように、「神、人と偕に住み、今より後、悩みなく病もない」世界が展開するのであります。私たちには既に過去はなく、常に新たであります。常に花嫁の如く、みずみずしく、生命力に満ち溢れ、希望に輝く日々が、私たちを待っているのであります。キリストは「肉体本来なし」として、肉体を十字架にかけて抹殺した時に、はじめてあたらしき天と地とに復活したのであります。

 キリストは、「天国は此処に見よ、彼処に見よと云ってないのである。汝の心の中にある」と教えられました。これは天国が此処に無いというのではなく、私たちが心の眼を開いて見たならば、到るところ「神の愛」は満ち、私たちを愛し、私たちを生かさずにはおかないところの、大いなる神のいのちを見出すのであります。

 「おい君、太陽が照っているよ」と友達に言われても、「太陽は照っているのが商売だ。何がそれで楽しいのだ」とそのように考えると、その人の前から天国は消えてしまうのであります。心の眼を開く時、到る所に天国は開かれるのであります。黙示録の「われ一切のものを新たにするなり」とは、何か今までのものを引き破って新たにするのかと云うと、そうではないのであります。

 私たちの心が新たになったら、この現象その儘で、そこに新たなる世界が見出されるのであります。私たちの心の世界が新たになることが、「古き天と地とは過ぎ去れり」であります。そして、新しきエルサレム、新しき神の都が花嫁のごとき装いをして「天」から天降って来るのであります。「天」とは実相であります。ですから、実相が顕現すれば、そこがその儘、天国浄土となり、私たちの環境がそのまま神の都のようになるのです。心の眼を開いたらここが神の都であったのです。

 心の眼を開いて見たら、天地間すべてのものは有り難さに満ち溢れているのであります。「有難い心」とは、何でも「ありふれたもの」として見ないで、「有難きもの」として見る心であります。それは神秘を感ずる心であります。驚異を感ずる心であります。もし私たちが万象悉くに驚異を感ずる心になれば、万象悉くが有難くなるのです。谷口雅春先生は「天地に満つる神の絶対愛を感じ得たら、その人は詩人であり、その人は哲人であり、その人は宗教家であり、その人の住む世界は悉く天国浄土になるのでございます。」と教えておられます。

 私たちはこの世界が未だに天国浄土でないことを嘆いてはならないのです。自分の心の眼の開かない事をこそ嘆くべきであります。谷口雅春先生は、私たちが心の眼を開いた時には、野に芽をふく一本の蕨のなかに生命の美を発見し、天地の愛を発見し、今までに功利的にしか見なかった事物の価値が転倒し、神の絶対愛を感得し、此処がそのまま生き甲斐のある世界となることを教えてくださいました。

 「われ一切を新たにするなり」− その日、その日を新しい天地に、目覚めることの出来る人、そして心が常に新鮮で、到るところに「生命」の神秘を感じ、讃歎の声をあげる人こそ、天国の住人なのであります。「天国は此処に見よ、彼処に見よと云って存在しないのであって、汝の心の中にある」のです。幸福は遠いところにあるのではなく、私たちの心一つでそれを到る所に見出すことが出来るのであります。

                             (終わり・238-10)

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