生命について
仙頭 泰
                         

 「生命の実相」の"はしがき"に、次のような谷口雅春先生の御文章が載っています。それは「生命」に関するものであります。

 「生命の科学は、生命の現象を捉えて研究する、つまり現象としての生命を捉えるのである。現象としての生命は条件の変化によって色々の現れ方をする。即ち生まれて成長し老衰し病み死する。即ち現象生命は無常である」

 このことについて、釈迦は悩みをもたれ、色々の修行ののち、ついに「山川草木国土悉皆成仏」と悟りを開かれるのであります。私達の肉体は常に変化を続けているのであります。この変化する肉体の奧に、常住の素晴らしい自分がいることを発見することが大切なのであります。

 「生長の家」で、教えを学ぶ時に気をつけなくてならぬことは、「実相と現象」の区別であります。ですから「生命」のことに関しても、「現象の生命」と、「実相の生命」に分けて明確に理解することであります。肉体が変化することは、誰も異論はありません。肉体が変化することが可能であるためには、変化する肉体の奧に、変化しないものがなければならないのであります。

 つまりAがBに変化する事が可能なためには、AがBに変化しながらもAとBとを通じて共通の変化しない「本体」がなくてはならないのです。変化しない共通の本体がなくて、Aが消えてBがあらわれたならば、AとBとは無縁の別々のものであって、それではAがBに変化したとは云えないのであります。AがBに変化したのであれば、そのAとBとの間に共通の変化しない「常住の本体」があるからです。変化して現れているAとBとは現象であり、その奧にある「常住の本体」が実相であります。

 私達の肉体は、生まれて生長し、そして老い、病み、死するとこの様に変化するのであります。生理学では、人間の肉体細胞は、生後十五年もすれば全然新しい細胞に変化すると云うのであります。すると十五年前の肉体と、その人の十五年後の肉体は全然別物でありますが、その人の人格は同一人格として継続しており十五年前のその人の行動に対して、今日もその人は責任をもたねばならないのであります。

 肉体が全然別物になっている人の行為に対する責任を十五年後のその人が負わなければならないのは、人格の継続は、肉体の継続ではないからです。肉体が変化しても、その奧にあって死滅しないで継続をしている実在としての生命を、谷口雅春先生は、「生命の実相」と名付けられました。そして、それこそが「人間の本物」であると云われました。その「人間の本物」は生老病死の如き変化をうけないものであるから、「病むことなき完全円満なる自分」なのであります。私達は自己の本物を、病むことなき、「自性円満なる自己の実相」であると本当に自覚する時、自然に現れる心の解放状態によって、人生百般の苦悩が解消するのであります。

 「生長の家七つの光明宣言」の中には、「生命」という言葉が沢山書かれてあります。まづはじめに「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」と、ここから始まっているのです。谷口雅春先生は「生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いて神癒となる」ことを教えられておられます。それを別の言葉で云えば物質的方法によらずして実相円満の自覚によって、大生命のお力を呼び起こして吾々の不幸を癒して頂く方法であります。

 私達が今生きていると云うことは、これは自分自身が生命であると云うことであります。そして自己の生命を拝むと云うことは、自分自身が尊い「生命」であるとの自覚をもつことであります。このことが、すべての道徳生活の根本になると教えておられます。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身を辱めない生活をすることが出来るし、他の人の生命や個性や生活をも尊重することが出来るし、また私達は私達の「生命」の「本源者」に対して尊び礼拝したくなるのであります。

 私達は、肉体は死んで腐ってなくなっても、この肉体に宿る「生命」は滅んでしまうのではなく、個々の人格の特性を備えたまま、私は私、あなたはあなたとして「無限生長の道」を歩んで行くのであります。ここで聖経「甘露の法雨」の「人間」の項の117節から184節までを、ゆっくりと落ちついて読んで、この内容を感得いたしましょう。

 「時きたらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
 汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
 人間は生命なるがゆえに常に死を知らず。
 想念(こころ)に従い時に従い必要に従い肉体と境遇とに様々の状態を顕(あらわ)せども、生命そのものは病に非ず、生命そのものは死するに非ず、想念(こころ)を変うることによってよく汝ら健康と境遇とを変うること自在なり。
されど汝らついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。
かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天かけらん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本体は生命なるが故に死することあらざるなり。」

                            (おわり・233―5)
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