神と万教帰一について

 仙頭 泰


生長の家では、宗教という言葉について次の様に説明しています。「世界すべての宗教は唯一(ただひとつ)の本源より発するものにして、万教は唯一の真理に帰一し、人間救いの原理は唯一にして二つあることなし」と云うのであります。そして、生長の家の教義の根本となる「神示」は、「大調和の神示」とよばれているのであります。

生長の家の神示の中に「万教帰一の神示」とよばれるものがあります。この神示の冒頭に「われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである」と示されています。聖経「甘露の法雨」の「神」の項では、2節に「創造の神は五感を超越している」とあり、4節には「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う」と示されています。

 神の創造については9節11節に次の様に示されています。「この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」、そしてつづいて「万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし」とあります。聖経「甘露の法雨」の「神」の項には、詳しく「神」について説明してありますので、熟読してください。

 ここで谷口雅春先生の御著書「神の真義とその理解」の「はしがき」の中から抜粋します。
 「神とは如何なるものであるか、知らない人々が多いのである。自己の内に生きている生命の尊厳を主張し、基本人権の絶対権を説きながら、それでいて『自分は無神論者だとか、唯物論者だ』と思っている人もある。それとは別に、実に敬虔に神を信じ、神を礼拝し、神を讃えながら、その神が自分の生命とは別に、自己の外に在る神通自在の神秘者であり、"自分"というものは、その権力の前にひざまづいて、いなければならない"奴隷的存在"に過ぎないと自己卑下している気の毒な善人もある。

 しかし本当の神は、そんなに自己の外にのみある権威ではないのである。神は普遍的存在であると同時に自己の内にある生命が"神"であるのである。その実相を自覚しない気の毒な善人は、つねに"神の前"に戦々恐々として怯えていなければならないのである。そんな人達が、神罰の予想の前に、ニセモノの宗教家に欺かれて、いつまでもその邪教に縛りつけられてそこから脱出できないで常に搾取せられているのは、まことに見るに堪えない気の毒さである。」

 谷口雅春先生は、人間の生命の本当の相が"神"の生命であることを説き続けられたのであります。私たちは、神の生命が自己に宿って自己の生命となっており、自己は決して「罪の子」ではなく、また「罪悪深重の凡夫」でなく、神の生命の個性的に顕現した普遍的存在であるということを自覚して、自己の運命も環境も快適にして豊かな楽園に変化していくのであります。生長の家では、神は私たちに内在するだけでなく、色々の段階において無限の姿をあらわしておられると教えるのであります。

 谷口雅春先生は次のように述べておられます。
 「『われに姿かたちあるようにいう者あれどもわれは姿なきものである』と宣言し給える絶対者としての神もあり、森羅万象の中にその姿をあらわしてい給う普遍的存在なる神もある。その普遍的存在たる実相を媒介として、人間は神と霊交し、森羅万象の生命と互いに交通をする。その霊的交通によって、われわれは森羅万象に向かって話しかけ、意のままに楽園の天国を地上に建設することができるのである。

 絶対者としての神は無言でわれわれに話しかけ給う。しかし顕現者としての神は、聴える声でも話かけ給う。顕現者としての神と吾々は交通し得たとき、神は吾々の"天の父"ともなって、人格的な神との交通が得られるのである。その人格的な神との接触を、具体的に実現するために、神社や拝殿を造営して、神との人格的接触の"場"とすることも出来る。その造営に必要なる布施または荘厳供養の実践によって、人間は"愛"というものを生活の具体的営みの中に体験し霊魂が進歩し向上するものである。

 神は"一"であると同時に"全"であり"多"である。"一即多""多即一"であり、一神即万神であり、一佛一切佛である。しかし神は自己の個性化的顕現をもって、自己内在の無限を表現し給うのであるから、同一個性をもって、万人又は万物があらわれることを嫌い給うのである。それ故に"一神即万神"として色々の使命をもつ神々を顕現し給う。また"一佛一切佛"として無数の如来を顕現し給い、その使命又は役割も、個性をもって各々異なり給うのである。」

 つまり本源の神は、無相にして無限相であるのです。「生長の家」は「大宇宙」の別名であると神示の中で示されています。ですから「生長の家の神」とは「大宇宙の神」ということになります。神は宇宙の中に生まれたのではなく、神の生命そのものの広がりが宇宙であります。

 神道では「高天原に神つまります」と云います。これは大宇宙に、神はみちみちておられるということであります。キリスト教でも「神は遍在である」と云います。ですから、神は「此処に見よ、彼処に見よ」というようには存在しないのであります。神は何処にでも到るところに、我が内に、すべての人の内に、宿ってましますのが宇宙の大神であります。これからの時代は、宗教がお互いに争うのではなく、その真髄は一つの源であることに気が付き、教えを説く方法はそれぞれに特色を持ちながらも、人類の神性開発の為に協力し、御心の天になる世界の建設に邁進しなければなりません。

 最後に谷口雅春先生の「宗教的啓示も変遷」と題する御文章をここに掲載します。
「およそ宗教的啓示というものは、宇宙の本源たる『唯一つの心』なる神から、波長が最も適切に同調する教祖的人格に対して与えられたる霊的教示であります。すべての良き宗教の教祖は、おしなべて、色々の修行の結果、その精神状態が、宇宙の本源(神)なる『唯一つの心』に同調し得る境涯及び瞬刻限において閃き出でたる啓示を祖述するものなのであります。

 教祖はその限りにおいて、神の教えを語り伝える"語る部"の役目をします。しかし神はその時代、その国土、その民衆の伝統などに調和したすがたをもって教えをしなければ、民衆を導くことができませんから、ある程度、その時代、その国土の民衆の思想に"迎合"します。"迎合"と言っては表現が完全ではありませんが、民衆に適する程度に、真理の表現を"緩めて"説くのであります。

 従って或る時代の或る民衆に適する宗教でありましても時代の進展とともに、その緩められた表現が、次の時代の民衆に適しなくなるのであります。そこにその宗教の躓きがあらわれて、民衆の心を打たなくなるのであります。そして次ぎに、もっと時代の民衆の心にアッピールする宗教が、出現することになるのであります。」

 私たちは、各自で改めて「神真理を告げ給う」という谷口雅春先生のご著書の第一章「宇宙及び人間の創造について」を拝読致しましょう。偉大なる宇宙の経綸に胸打ち震えます。
                            (終わり・239―11)
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