霊的実在としての人間
 

    仙 頭    泰


「菩薩とは如何なる人々のことであるかと云えば、諸君のことである。自利の為にのみ生活せず、利他の為に真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめるとともに、その真理をもって多くの他の人々の魂の向上に貢献し幸福を施してやまざる如き人々である。」 このように谷口雅春先生は述べておられます。

 そして菩薩たるものは「一切衆生」即ち人類を自分の心のうちに取り入れなければならぬと教えておられます。また現象界はむなしく移り変わる無常のものであると云うことを知りながらも、人類光明化のために尽くさずにいられないのが菩薩であります。生長の家では、まず「自分」がクラリと観の転換をすることを教えています。自分自身に親切にすることからの生活を、はじめるのであります。それは「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」と云うものをもっと大きく育てることであります。

 私たちは、生長の家のみ教えを家庭で実践することから、はじめなくてはならないのです。谷口雅春先生は、「家庭で喜ばれるような人にならぬと、本当に生長の家の家人ではない」と教えて下さっています。家庭は魂を磨く道場であり、家庭で家族から褒められる人は、社会に出ても褒められる人になると云われています。生長の家では、神の人類光明化運動を伸展させるにあたり為すべきことは、すべての人のうちに「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を開顕し確立する」ことが、第一であると教えています。

 そこで聖経「甘露の法雨」の「人間」の項を開いて見てください。
ここには「人間の実相は、霊であり、生命であり、不死である」と示されています。そして神と人間の関係は「光源と光線」の関係であり、それは丁度光があれば光源があり、光源があれば必ず光があるように、人間と神とは切っても切れない一体の関係であると云うのであります。

 まことの人間というものは霊であり、愛であり、智慧であり、生命であるから、罪を犯すことも、病気にかかることも、死滅することも「能わず」と示されています。つまり「本当の人間」にとっては、「本来不完全なものは無いから、不完全な状態になりようがない」のであります。これは実に素晴らしいことであります。私たちに必要なことは、生命の本当の相(すがた)を自覚することであります。本当の人間は神人であります。

 「至上者の自覚の神示」のなかには「人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。生長の家がこの世に出現したのはすべての人々にこの至上の真理を知らさんが為である」と示されています。さて聖経「甘露の法雨」の141節では「地上の人間よ、われ汝らに告ぐ、汝ら自身の本性を自覚せよ」と、天の使いが私たちに呼びかけておられます。

 罪とか、病とか、死と云うものは私たちが、夢に描いた妄想に過ぎないのであります。私たちにとって大切なことは、この夢から覚めることです。夢から覚めて、発見するものは本来清浄である自分であります。この時には、不完全なものは皆消し飛んでしまうのであります。ですから、聖経の中で繰り返し云われるのは「心を尽くして、自己の霊なる本体を求める」ことであります。夢と妄想の産物である物質や肉体の中に自己があると考えてはならないのであります。

 イエスは「神の國は汝らの内にあり」と云われました。このことを私たちが忘れて、物質に神の國を求める生活をする時には、常楽の国土は現れて来ないのであります。私たちにとって大切なことは、「常楽の国土は内にのみあり、内に常楽の国土を自覚してのみ外に常楽の国土はその映しとして顕現せん」という語句であります。

 本当の自分は、霊妙なる生命であります。この肉体は、生命が心の糸を組み合わせて肉体と云う繭を作って、この現象世界で活動をしているのです。肉体は人間ではなく人間の繭であります。私たちは肉体や、環境や、境遇などに色々な状態を現し、またそれらの状態を色々な状態に変えることは自由に出来ます。この様に、現象世界で、どのように幸福な人生を送っても、生命はこの肉体という繭を食い破って一層自由自在な境地に天かける日が来るのであります。

 この時は、人々は死を迎えたと云う事になり、肉体は眼に見える世界から消えて亡くなります。しかし、本当の人間は、生命でありますので生き通しであり「死する」と云うことはないのであります。私たちは、常に光り満ちあふれる幸福の道を歩み続ける素晴らしい存在であります。

                            (終わり・237―9)
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