私達の本体は何処にあるか

仙 頭   泰


昔、支那に契仲と云う人がいて、車を発明したのであります。この契仲が車を百台造っておきながらその車をバラバラにして、そして何かを捜し廻っていると云うのであります。そして人が「何を捜しているのか」と尋ねましたら「私は車が何処にあるかと捜している」と答えました。

 この話について谷口雅春先生は次のように教えて下さいました。車をバラバラにして、その部分品の中に車を捜しても本当の車は無いのであります。車は、車を製造した契仲と云う人の心の中にあったのです。契仲の心の中に造られたアイデイアとしての車の創造力によって、即ち「心の働き」によって部分品が集められて、「現象の車」が現れて来たのであります。

 現代は医学が進歩して、人間の身体でも、解剖して細かく切って色々と調べることが出来るのであります。そこで人間の肉体をいくら解剖して調べて見ても、人間の生命を探し出すことは出来ないのであります。バラバラにした人間の肉体の部分の中には「人間」はいないのであります。肉体を部分品に分割して幾ら顕微鏡で覗いても、その中に生命を発見する事は出来ないのであります。では部分品を悉く集めたら人間がいるかと思っても、そのなかにこれが生命だと云うものを発見することは出来ないのであります。聖経「甘露の法雨」の中には、「肉体の奧に、物質の奧に、霊妙きわまりなく完全なる存在あり、これこそ、神に造られたる儘の汝そのもの……」と書いてあります。

 私達の本体は、一体何処にあるかといいますと、人間が生まれ出たところのもと即ち神の心の中にあるのであります。神が心の中に"人間"なるものの理想像を描いた、その神の心の中に描かれたパターンを"理"または"理念"というのであります。神の「心」の中に「かくあれ」と、描かれたものは永遠に変わらないのであります。それが本当の私たちなのであります。

 神は、生きている生命であります。その大生命が働くと、それが「心」となって現れるのであります。「心」とは「思うもの」であります。この「心の思い」と云うものが事物の生まれる最初の原因として発現するのであります。この「想念」こそが、全てのものの「初め」であり、「根源」であり、「原因者」であるのです。 そこで神のことを「第一原因」とも云います。すべてのものが存在に入る第一原因は神であります。神なる大生命が動くと必ず「心」となり、「心」が動くと、それは何かを「思う」と云う働きになってくるのであります。先程も云いましたが、神が一遍思い浮かべられたことは、それは、「永遠の存在」として消えないのであります。

 生長の家ではその「永遠の存在」を真理と云うのであります。生長の家で「真理は一つである」という意味は、真理と云うものは普遍妥当性があり、宇宙の何処に行っても一様に正しく当てはまるのであるという意味であります。真理の中には、数学上の真理もあり、物理学上の真理もあり、心の法則としての「心理学上の真理」もあります。この様に並べると色々の真理があります。ですから「真理は一つ」と云う場合の「一つ」は決して「複数ではない」という意味での「一つ」ではないのであります。先程の通り「真理は一つ」という意味は、何処に行っても、一様に正しく当てはまるものであると云うことです。

 たとえば、2x2=4と云うのは、数学上の真理であり、何処に行っても同一に当てはまった共通のものでありまして、同一普遍の真理であります。これは時間的にも、空間的にも当てはまるのであります。真理は永遠不滅のものであり、神がその心に思い浮かべられた「理念」は、永遠不滅なのであります。

 旧約聖書の中にも「神の像(かたち)の如く人を造り、これを男と女に造り給えり」とその創世記に書いてあります。神が、神の万徳円満の相(すがた)の人間を描かれた。即ち「理念としての完全人間」がそこに出来たわけです。これは理念の人間ですから永遠に砕けない、金剛不壊の人間であります。これが人間の「実相」なのであり、本当の人間なのであります。人間の肉体は、オギャーと生まれて、何時かは死ぬのであります。現象としての人間は結局は死んでしまうのであります。けれども、その現象の奧に、死んでも死なないところの「実相の人間」を、私達は、発見しなくてはならないのであります。

 本当の人間は、神の最高の自己実現であり、霊的実在であると、常々教えられています。私達一人一人の内に、神のあらゆる素晴らしい特性を備えた理念の人間があり、それがそとのに映し出されて、肉体人間としての形を現しているわけであります。「霊魂進化の神示」の中に「『神の子』なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的である」と明示してあることを、忘れてはならないのであります。

 また「至上者の自覚の神示」には「人即ち神であると云う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』がこの世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である」とあり、この神示には人間自身の尊厳を自覚することが如何に大切なことであるかが明示してあるのであります。谷口雅春先生は、理念と現象の関係を説明されるのに、花の種と花の例をよく使われます。ここに朝顔の種があるとします。この種を切って顕微鏡で調べても、胚芽とか、胚乳といったものの組織は分かっても、種の中には朝顔の花も、葉も、蔓もなに一つ見出すことは出来ないのであります。

 ところが、この種を蒔きますと、やがて芽が出てきて、そして段々と成長して、そして朝顔の花が咲くのであります。この朝顔は、光の具合であるとか、水の具合であるとか、肥料の具合であるとかによって、花の大小や、蔓の太さや、葉や花の艶などに変化があります。しかし、どんな時にも朝顔としてのタイプを現すのであり、他の花にはならないのであります。これは、朝顔の種の中に肉眼では発見することが出来ませんが、「理念の朝顔」が実在していればこそ、何処に種を蒔いても、朝顔の花が咲きでるのであります。
 
人間でも痩せた人、太った人、背の高い人、背の低い人、顔の丸い人、顔の細長い人など、さまざまに表現の違いがありますが、しかし人間としては皆同じ形に現れているのであります。これは人間と云う形の奧に、霊妙きわまりない、神のあらゆる善徳を備えた「永遠不滅の理念の人間」が実在しているからであります。これこそが本当の私たちなのであります。現象は常に変化をしますが、理念は永遠に砕けないところの存在であります。

 私達が今この世に生まれて来る為には、父母があり、そして遡れば祖先があり、更に遡れば神があり、これらの「いのち」が、今の一点に於いて、この自分に於いて花開き、そしてまた自分を起点として永遠の未来に向かって、発展して行く生命なのであります。宇宙の大いなる構図を考えるとき、いよいよ自己の偉大さ、尊厳さを感じ、その素晴らしさを発現すべく勇気が湧き出てくるのであります。

                            (終わり・245―5)
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