実在はこれ永遠 仙 頭 泰 |
「実在はこれ永遠」、これは実に素晴らしい言葉です。この言葉は聖経「甘露の法雨」の中に出てくる言葉であります。そして実在は、病気にもならず、老いることもなく、死もまたないと示されているのであります。実在とは本当にあるものであります。肉体の感覚には感じられても、本当に存在しないものが現象であります。「本当に在るもの」が実在であって、これは永遠に消えてなくならないものであります。 消えてなくなるものは「本当に在るもの」ではないので、それは「仮にある」のです。現象は「現れの相(すがた)」であり、仮の存在であって、永遠に存在することは出来ないのであります。仮相はあくまでも仮相であって、どんなに在るように見えても、実在になることは出来ないのであります。つまり実在は永遠に滅びないのであります。 聖経の中に、本当の人間は、霊的実在であって、本来神と一体であるとあります。また神と人間との関係については、光源と光線との関係であると教えてあります。本当の人間は、神の最高の自己実現であります。本当の人間は、神のいのちから生まれたのであります。ですからすべての人間は悉く神聖受胎であります。神聖生命が五官の世界では、肉体として生まれてきたかの如く見えるのであります。肉眼で見るから、人間は母の胎内から生まれでた肉体であるとなるのであります。 生長の家では、人間を肉体と観ずる限り、そこには生があり死があると教えています。このことについては、聖経「甘露の法雨」の「人間」の項で詳しく説明してあります。人間は生命であるから常に死をしらないものであります。ですから肉体の死滅を以て 人間の死としてはならないのであります。聖経「甘露の法雨」の中では、霊的実在である人間と肉体との関係を、蚕と繭にたとえて説明してあります。蚕が糸を吐き出して繭を作り、その繭の中に蚕自身が宿ったように霊なる生命が心の糸を組み合わせて肉体という繭を造ったと書いてあります。 本当の人間は、永遠不滅の霊体であって肉体と云う物質があって、それに霊が宿って人間になったと云うような二元論は間違いなのであります。このことは「帰幽の神示」の中にも次のように示されています。「汝の肉体は汝の念絃の弾奏する曲譜である。生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考えであって真理ではない。正しく云えば生命はその念絃の弾ずる曲譜に従って肉体を現すのである。」 人間そのものは肉体として生まれて来たときに、生まれて来たのではないのであって、無始無終の宇宙の生命が、有限の世界に自己実現して生まれて来たのが人間であります。ヨハネ伝の第一章には「肉の欲(ねがい)によらず、人の欲(ねがい)によらず、ただ神によりて生まれしまり」とあります。神のいのち天降ってこの地上に誕生したのが私達なのであります。 谷口雅春先生はつぎの様に教えておられます。ここに画家がいて、彼の心の中にバラの美しい花の姿があるとします。心の中の「バラの花」には寸法はないのであります。併しそれを表現するとなると、それにはカンバスが必要になります。カンバスには縦横の寸法の制限があります。この枠内に心の中の「バラの花」を表現するのであります。 それと同じく「無限である神の姿」は、無限のままではこの現象界に表現出来ないので、時間空間の枠内に嵌めてそれを表現するのであります。これが肉体と見えて現れるのであります。ですから、肉体の方は影であって、その奧に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」があるのであります。ですから、肉体の方は影であって、その奧に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」があるのであります。これが本当の人間であります。 生長の家では、凡ての人間にはキリストの霊(神性、佛性)が宿っていると教えているのであります。その真理を万人に自覚せしめるために生まれて来られたのがイエスであるのです。神聖受胎と云うことは、イエスの独占ではなく、凡ての人間は神聖受胎であり、神のいのちがそのままに、そっくり現れているのが本当の人間なのであります。この肉体と云う物質が人間であるとする自覚、これが迷いなのであります。 この肉体を人間とする自覚を"はりつけ"にした時、即ち肉体を十字架でクロス・アウトして、「肉体本来なし」と、打ち消して「観の転換」をした時に、はじめて実相の人間「霊なる人間」が復活するのであります。十字架は、「肉の抹殺」であると共にそれは「復活」の印であります。谷口雅春先生の作詞に「生長の家の歌」と題し、その中に「基督教讃歌」があります。次のように書いてあります。 「あまつくに いまここにあり 我ちちの みもとにゆけば なんじらの うちにきたると 十字架に かかりしイエスは のたまいぬ あわれ世のひと 十字架は にくたいなしの しるしなり この肉体を クロスして 我神の子とさとりなば 久遠にいのちかがやかん 久遠にいのちかがやかん」 私たちは心を尽くして自己の霊なる本体を求めて行きましょう。 (終わり・247―7) |
「み教えの基本」へ戻る 「総合目次」へ |