倶に泣く

仙頭 泰


 生長の家では、観の転換と云うことを教えます。その中でも一番強調しているのは、人間観であります。私たちは、口を開けば人間の幸福と繁栄のためにと言うのであります。ところが、この人間なるものをどの様に把握するかによって、人間の幸福とか繁栄の内容が異なってくるのであります。

 今までは、人間はこの肉体であり、死により全てのものは消滅するのだと信じていた人もありますが、現代では人間は霊的実在であり、生き通しの生命であるということが認識されつつあります。私たちは、聖経「甘露の法雨」の「人間」の項をじっくりと読んでみましょう。ここには、「人間」とは如何なるものかが、詳しく述べられています。

 さて「観」でありますが、これは「物の見方であり、物の考え方」であります。そして、この現象世界は、観ずる通りに現れてくる世界であります。ですから、私たちは常に自分の「観」に対して注意をしなくてはなりません。

  谷口雅春先生の「静思集」と題する本の中につぎのような事が書いてあります。
「環境と心は合わせ鏡のように互いに影響し合う。今日一日自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる相(すがた)をもって現れようとも、その不快なる相(すがた)は、現在又は過去に於いて自分のどこかに潜んでいた不快な心の反映であると信じ、自己をかえりみよ。そして相手の奧にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

 自己には峻厳であり、他には寛大であれ。自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。人は既に完全であるのに、その完全なる相(すがた)が自分の眼に映じないのは、自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

 人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情――そんなものを伴うならばそれを指摘しない方が好い。相手のために倶に泣き得る底になったときのみ、相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを持たないで相手を改心せしめ得るであろう。人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

 「倶に泣く」と云う感じは、自他一体の感じであるからしみじみと有り難く感じられる。「倶に泣く」という感じは、軽蔑から来るのではなく、本来あるべき筈の尊厳の境地を尊ぶことを、前提として、その堕落を倶に悲しむのであるから、素直にスラスラと容れられる。

 人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。自尊がなければ自暴に陥る。自暴に陥れば改善とか改悛とか云うことはあり得ない。自尊は他敬によって養われるのである。「咎める」言葉が不結果を招く原因はこんな所にあることが判るのである。

 人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥よ。「愛」の中にこそ聖泉がある。それは知恵が如何に切り開いても発見することの出来ない聖泉である。その聖泉に身をひたすとき一切の不完全は癒されるのである。みんなと倶に泣こう。悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。」

 以上が一つの随想であります。ここに癒しと云う言葉がありますが、谷口雅春先生は、癒しに関連して、次のように述べておられます。
「癒しと云うのは、神の創造の顕現である。神の完全なる御徳が現象世界に現れて来ることに過ぎないのである。だから私たちが、神の完き創造の力と恵みと知恵とを認めるならば、病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しを与えられるのである。不幸に傷ついたる人々よ、神の癒しを享けよ。神は無限の知恵、無限の愛、無限の生命であり、世の終わりまで、常に吾等を愛し吾等を守り続けて居られるのである。」

 私たち人間が如何なる観を選択するかは、各自の自由であります。然しその結果により、その人の人生の幸、不幸が決まるのであります。如何なる観を私たちが持つか、これは考える程、重要な課題であります。

 生長の家の人々は、人間の本質は神そのものであることを、徹底的に理解することです。「生命の実相」第一巻の「心の世界における運命の形成」のなかで、一番大切なことは「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」との事実に目覚めることであると示されています。このところであります。

                           (終わり・246−6)

       
                    
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