人間の実相は完全である

仙頭 泰


 生長の家でいわれることは、「真理」をよく理解する為には、是非とも「現象」と「実相」の区別をハッキリと知らなくてはならないと云うことです。簡単に云えば「本当に在る」と「現れている」と云うことを混同しないことです。

 病気は現れていても、それはナイ(非実在)のであります。本当に在るものは、即ち「実在」であります。「本当にアルもの」は「消える」ことがないのであります。「本当にアルもの」は常住不滅の存在であります。病気はあるように見えても、それが消えてしまう、これはつまり治るという現象であります。アルと見えていたのが消えると云うのは、本当にアッタのではなく、それは現れていただけのものであります。

 ここにコップがあるとします。このコップには水が入っています。このコップに一本の箸を差し込みます。するとこの箸は水面で折れているように、この肉眼には見えます。写真を撮っても、確かに水面で折れているのです。ところがこの箸を、水の中から引き出して見ますと、折れていないのです。真っ直ぐなのであります。これは一つの例えなのですが、箸はもともと真っ直ぐなのが、箸の実相(本当のすがた)です。折れているように見えたのが、現象であります。この様に私たちの、肉眼はときどき「本当にある」ものと「見ているもの」とのくいちがいをします。

 私たちは誰でも「完全になりたい」という願いをもちながらも、「現実の自分は不完全である」と云う意識を矢張りもっています。私たちが「尚一層完全になりたい」と云う願いをもつのは、私たちに既に「完全なもの」が、すでにあるからです。

 私たちが、「自分の生命の実相そのものは、すでに本来円満完全である」と云うことは、有限ではなく「無限である」と云うことを意味しています。つまり自分の生命は、決して有限の存在ではないと云う自覚をもっていることになります。「無限の生命」そのものが、自分の実相であって、それが仮にここに姿を現しているのが、現象の自分であると云うわけであります。「無限」と云うことは、空間的にも時間的にも、無限を想像することが出来るわけです。

 私たち自身にしても、この地上にオギャ−と生まれた時に生まれて来た生命ではないと云うことです。私たちの生命そのものが「久遠の実在」であって、時間なき時間の始めから、永遠に続いて生き通しているところの生命そのものが、自分であると云うことであります。普通、人間は現象的に「オギャ−」と生まれた時に生まれた生命と考えますが、このことは間違いであります。人間の本当の生命と云う意味から云えば、人間は「生まれない」ところものであります。「生まれない」から「滅することもない」のです。つまり、始めからあるのであります。つまり、「本来ある」のであります。

 本当の人間は、何年何月何日に生まれて、何年何月何日に死んだと云うような、そんな限りある存在ではないのであります。限りなきところの、本来の「神なるもの」がここに出現したものが、本当の人間であると云うわけであります。

 本当の人間とは、この肉体と云う革袋ではなく、この革袋を自由自在に操ってこの三次元の世界で、神の子の素晴らしさを表現しているもの、それであります。本当の人間は神の最高の自己実現であり、霊的実在であります。私たちにとって大切なことは、素晴らしい霊的実在であることの自覚を深めることです。聖経のなかに「人間神の子の自覚より、神の子人間の自覚に超入せよ」と示されています。

 神の人類光明化運動の伸展にあたり、私たちが先ずはじめにしなくてはならぬことは、この「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)」を全ての人々のうちに開顕し確立することであります。

                          (終わり・241―1) 

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