神について

仙頭 泰


 心理学の進歩により、人間の心に関して色々な事が私たちに分かってきました。人間の心は「現在意識」といって現在明確に思惟している「心」だけでなく、現在意識のその底には「潜在意識」という心があり、その心が生理作用や無意識行動を支配していることがわかりました。ですから神罰というものは、神が与えたのではなく、潜在意識の「自己処罰」だと云うことが分かったのであります。

 人間の生理作用や無意識行動を操っている潜在意識が、一歩あやまれば、生理作用を混乱に陥れ、或いは無意識のうちに衝突する車を選んで乗せたりするのであります。更に深層心理学では、潜在意識の奥底に、"人類の潜在意識"(人類意識:race consciousness)というものがあり、そこには人類が今までに経験してきた苦難の印象が集積されており、「こんな場合にはこんな苦難が生ずる」という人類意識に触れると、それがその時相応の色々の受難として具象化してきますので、これらの不幸・災難は神罰ではないのであります。

 そしてこの人類意識の底に、さらに宇宙意識があるというのであります。それで私たちの潜在意識は宇宙全体の潜在意識とつながっており、無意識の世界においては、この宇宙の何処に何時、何が起こるかを暗黙のうちに知っており、自己処罰の潜在意識のある人は、不幸な出来事に自然と自分の身を近づけていくのであります。ここで思い出すのは「生命の実相」第一巻にあります「心の世界における運命の形成」であります。私たちが忘れてならないのは「類をもって集まる、類でないものは反発する」という心の法則であります。

 谷口雅春先生は「朗らかな、明るい、愛深い、人を咎めない、赦しの深い、寛大な、平和な、落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心を養成するとき、自分の周囲にどんな不幸な事件がおこっても、その中に巻き込まれなくなるのであります。この修養の根本原則とは『自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である』との事実に、目覚めることであります。」と述べておられます。

 人類の潜在意識のその奧に、さらに超在意識(super consciousness)があり、その超在意識が即ち「神」であって、神は現象界を超越しながら、各個人に内在し給う「超越内在」の存在であります。この超越的内在の神こそ、自己の真実の魂(実相の我)であり、その囁きに従って行けば自ずから幸福になるものだと、判明してきたのであります。

 イエスが「天にまします我らの父よ」と神を称したのは、「天」とは「雲上」の意味ではなく、「超越している」と云う意味であり、「我(肉体我)みずからにては何事をも為し得ず、天にまします父われに宿りて御業(みわざ)を為さしめ給うのである」とイエスが言ったとき、「超越的実在の神が我が内部に宿って"内在の神"となっていて、この"内在の神"を自覚する時、その超越的な力が動き出して奇跡的とも見える偉大なる働きが出てくる」と云う意味に新しく解釈すべきです。このように谷口雅春先生は述べておられます。

 生長の家では神をこの様に理解し、超越的内在の存在として自己の内に「神」を認め、その内在の神が超越普遍の実体として無限力を備えていて、必要に応じてわれわれ個人を出口として、われわれの願いとその無限力を発揮させてくださると説くのであります。生長の家では、超越内在の神を学説として理解するだけでは何の効果もないのであり、超越内在の神こそが自分の本体であり実相であることを自覚し、その自覚が"生命の体験"として完成してこそ、「天の父われにいまして、御業をなさしめ給う」とイエスが言ったような偉大なる功績を立てることができると教えているのであります。

 私たちは自分の魂の底にこそ、宇宙に満ちている超越普遍の神が宿っておられるのでありますから、つねに「わが魂の底なる神よ、無限の力湧き出よ」と呼び出して、活動させるのであります。神を意識面に呼び出して活動させることは大切な事であります。「内在する神」といっても、この肉体という容器の中に閉じこめられてと云う意味ではないのであります。人間にしてもこの肉体が、本当の人間ではないのであります。肉体は自己表現の道具に過ぎないのであります。「超越的内在」とは「肉体を超越したところの奧」という意味であります。

 この「超越的内在」の自己が、自覚によって宇宙に超越普遍する神と同調することによって宇宙無限の力を引き出して来ることが出来るのであります。つぎに谷口雅春先生の「神の仲介者は結局、神そのものである」という御文章を学習いたします。

 神は"宇宙の大法"として、普遍的法則として宇宙に靜に充ち満ちているだけでは、神がその本質であるとするところの"愛"を成就することは出来ません。神がその本質であるとするところの"愛"を成就するためには、"神"と、救われるべくしてまだ救われていないところの"人"とを、結び付ける仲介者を必要とするのです。

 仏教においては、生きている人間である釈尊がその仲介者であったし、キリスト教においては生きている人間であるイエス・キリストが仲介者でありました。仲介者なくして一般の人間は神の愛との接触を完成することはできないのです。"神の愛"が人間に接触することができない限りに於いて、その"神"は実践上"神"たる事を得ないのであります。"神"が単に概念上の存在であったり、抽象的存在であるならば、それは本質に於いて"神"ではないのであります。

 "神"が実践上に於いて"愛の神"であるためには、どうしても"愛"を人間に対して実践する仲介者が必要なのであります。ここに"宗教"なるものが必要となってくるのです。概念の神は、宗教及び宗教家を通して生ける実践の神となるのです。このとき、その宗教家は、"神"の事実上の延長であり、神の応現者であり、応身の如来であり、化肉の"神"であり、"神"そのもとなるのであります。

 諸君も神の愛を実践して、人々に真理を伝え、神と人との仲介者となるとき、諸君自身が"応神の如来"であり、"化肉の神"そのものであって、それ以下の何者でもないのであります。今回は、谷口雅春先生著「神の真義とその理解」を使用しました。以前に学習しました「宗教的啓示の変遷」についても熟読して、今回の資料を読んで下さいますと、宇宙の壮大な構図にふれて胸がおどります。

                             (終わり・240−12)


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