“真理は汝を自由ならしめん” |
――神想観について―― 仙頭 泰 谷口雅春先生は「詳説 神想観」と題する御著書の「はしがき」の中に次の様に書いておられます。 「『真理は汝を自由ならしめん』とキリストは教えたのであるが、真理を自覚し得た者は自由自在を得るのであって、それを佛教では解脱と言う。真理を自覚して大自在の境地にまで解脱したる者を佛教では、覚者即ち仏陀と言うのである。 『解脱を以て佛となす』と“涅槃経”には録(シル)されている。キリスト教も佛教も結局は真理を知ることによって、一切の苦悩その他の繋縛から脱して大自在の境地に衆生をして達せしめんとするのが、その教えの最後の目標だと言い得るのである。 人間界の一切の苦悩は、戦争等によって自己破壊を刻々身辺に近づけつつあることをも含めて、すべて迷いによって自己の想念、行動を自縄自縛しているからである。真理を知ってこの自縄自縛を解き放てば、地上に天国浄土ともゆうべき至福の世界が実現することは必至である。併し、如何にすれば、人類が自己解放を遂(ト)ぐべき真理を自覚し得るであろうか。 釈迦は六波羅密即ち、布施、持戒、忍辱(ニンニク)、精進、禅定(ゼンジョウ)、般若(ハンニャ)の六つの到彼岸の道を示された。神想観と言うのは、私が修行中に神授せられたる般若の智慧を、禅定によって到達せる道である。動的修行として、布施、持戒、忍辱、精進が必要であるが、静的修行としては禅定によって、般若の智慧を体得するほかはないのである。」 そして、この「はしがき」の結びとして、つぎのような御文章が書いてあります。 「出来るだけ多くの人たちが、真理をただ書籍上で知るだけでなく、身をもって実修して、真理を全身心をもって体得し、一切の繋縛を脱して自由自在の境地に達せられんことを希望するのである。これは神授のものであって、私自身も、これによって修行中のものであることを申し添えて置く。」 この御文章を読ませて頂いた私達は、弟子として、もっともっと毎日の生活の中で「生長の家信徒行持要目」を実践しなくてはならないと、反省するものであります。谷口雅春先生は「信仰生活の一面は努力である」と教えて下さっています。怠けるのがいけないのであります。毎日一歩でも二歩でも、前進しなくてはいけないのであります。 谷口雅春先生は「人間は肉体ではない。霊的実在である。この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。神を頭脳で知っただけでは、神が“わがもの”とはならないのである。全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。それをなすのが神想観である。神想観を怠らず行ぜよ。」と述べておられるのです。 毎日の生活の出発はまず神想観の実修から、はじめることを各自でしてください。肉体の自分に打ち勝つこと、これが大切なことです。そこから私達の本当の進歩と歓喜と高邁なる理想実現とが生まれてくるのであります。 谷口雅春先生は「実相を覚(サト)るにはどうしても神想観をして、存在の実相と、自己生命の実相とを、正観することが必要なのであります。神想観によって、吾々は存在の奧に横たわる円満具足の本質を悟ることが出来るのです」と示しておられます。 つぎの御文章は、私達がよく気をつけておかねばならぬことが示されています。 「神想観中に“病気が治りたい”とか、“富を得たい”とか、現象的な影を追求する観念が少しでも混じりますと、それは本当に純粋の神想観でなくなるのです。それはすでに、何かの“欠乏観”であります。神想観はもっと根本的なもの、“全自我”を入れ替えるのです。神想観は“内部的生まれ更り”をするためにこそ行ずべきものであります。」 また、次のような御文章があります。 「本当に神を愛するとは、本当に神を好きにならなければならないのです。では本当に神を好きになるには、神と自分とが一体であることを知らなければならないのです。即ち、神の生命が自分の生命であり、自分の生命が神の生命であると云うことを知らなければならないのです。 神を見るに吾れ自身として見、神を愛するに吾れ自身として愛しなければならないのです。それにはどうしても、神と自己との一体感を深めなければならないのです。自分と神とが不可分の一体であると云うことが実感的に深まって来なければ、吾等は本当に神を愛することは出来ないのです。 神を愛するとは、素直に実相に直参(ジキサン)して、“神よ、私は神の子です。あなたは私の実父(チチ)です。あなたの生命が私に宿って、私の生命となったのです”と、まっしぐらに神の膝の上にかきあがることになるのです。 正しい祈りとは、實にこの“私は神の子です”との生命の宣言であります。この生命の宣言さえ完全であれば、すべての第二次的なものは、自然に成就することになるのであります。“神の生命われに流れいり給いて、吾が生命となる”“われは神に満たされ生かされて、神と不可分の一体である”この感じを理屈なしに、現在意識だけでなしに、潜在意識の底の底までもたたきこむのが、神想観であります。 だから、多くの祈り方はありますけれども、神想観にまさるものはないのであります。」 私達が神想観を実修するときは、実相世界の大変完全なる相(スガタ)を心に描いて、すでにその完全円満なる相(スガタ)あることを心で諦視(ミツ)め、それを讃美し、神の智慧と愛と生命と美の素晴らしきことを褒め称えて、感謝するのがよいのであります。 最後に「神真理を告げ給う」の御本の二十七頁より抜粋いたします。 「もっと、あなた達は神想観をたびたび熱心に実修して、自己が“無我”になり、偏向(カタヨリ)のある“我の智慧”を捨てて、普遍的な“わたし”の智慧に一致するように練習するがよい。 その時、あなたと“わたし”とは一致し、融合し、強制によらずして、あなた達自身が“わたし”の智慧に一致することになり、いわゆる“神我一体”の境地に達して、万事が順調に行われることになるのである。」 常に神とともなる自分――この自覚を深めて、神の人類光明化運動を伸展させましょう。 (終わり・84―10) |
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