“神”と“人間・神の子”の意義について

仙頭 泰

 

                   (その1)  

 谷口雅春先生の著書「神真理を告げ給う」と題する本の158頁、「“神”と“人間・神の子”の意義について」から、抜粋して学習いたします。先ずはじめに、次のように書かれてあります。

 「神は最高の力であり、最大の力であり、神の力よりも優れたる力は存在しないのであると、普通考えられているけれども、神はそれ以上のものである。あらゆる力より優れているどころか、神のみが唯一の真実の力であって、あらゆる力は神より出でたるものである。それ故に、すべての真実の力は、神より発した神の一部分である。すべての創造は神より発したのである。」

 つぎに神の創造についてであります。「神は宇宙の一切のものを“無”から創造した」という説もあれば、また「神は宇宙の一切のものを、自分自身のアイディアをその材料または、材質として創造したのだ」という説もあります。

 そこで神が宇宙を創造するのに、何かの材料を――例えば素粒子とか、中性子とか、水素原子とかを材料として組み立てて宇宙を創造したのであれば、宇宙の最初に神が創造しないところの材料、または材質が存在していたということになります。

 すると、この場合の神は絶対者とは言えないのであります。つまり、“創造する者”とその“素材となるもの”とが、相対する別個のものとなります。ですから、この場合の“神”は絶対者ではなくて、相対者だということになります。

 そこで谷口雅春先生は、相対者は“相対するもの”との関係において、それ自身の働きが制約されることになるので、全能者ということは出来なくなると述べておられます。

神が全能者でないならば、われわれ人間を根本的に救済する力があるか、疑問になるのであります。ですから、この様な神に対して、絶対の信頼をもって全托することは、出来なくなるのであります。

 生長の家で信ずる神は次のような神であると、聖経「甘露の法雨」に示されています。

    4、神こそすべてのすべて、神はすべてにましまして、絶対なるが故に、神の外に  あるものなし。

 5,神は実在のすべてを蔽う。

 6,存在するものにして神によって造られざるものなし。

 7,神が一切のものを造りたまうや、粘土を用い給わず木材を用い給わず、槌を用いたまわず、のみを用いたまわず、如何なる道具も材料も用い給わず、ただ「心」をもって造りたまう。

 8,「心」はすべての造り主、「心」は宇宙に満つる実質、「心」こそ「全能」の神にして遍在したまう。

 神は絶対者であると述べられています。絶対者は“空間”に規制されないで、遍在していると云えるのであります。遍在なる者は、どこにも在(マシ)まして、すべての人間の内に“佛性”として、また“内在のキリスト”として、私達に宿っておられるのであります。

 谷口雅春先生は「絶対なる神が私達に宿っているというよりも、“佛性”または“内在のキリスト”こそ本当の自分なのである。人間は絶対者の個性的顕現であり、それは“絶対即個”の実現である」と教えて下さっています。朝顔の種の中に、すでに朝顔の“花の原型”があります。朝顔の花という“個性ある形相(カタチスガタ)”は、すでに“理念”として存在しているのであります。

 谷口雅春先生はつぎのように述べておられます。

「すべて“自然発生”の形のあるものは、有無相対の“無”より生じたのではなく、肉眼では“無”と見えるその奧にある霊的原型(理念・アイディア)の自己顕現である」と。

 聖経「甘露の法雨」の神の項には、「神は宇宙を貫く法則」であると示されています。2に2をくわえれば4となるように、「宇宙を貫く法則」は自明の公理として、一切現象の発生する以前からの存在であります。この一切現象の発生以前からの存在が神なのであります。「天地一切のものは、神によって造られたのである」と谷口雅春先生が説明されました時に、「では、その神は何によって造られたのですか」と質問した人がありました。人間の理性は、原因をどこまでも追究する性格をもっています。

 神とは、原因なくして、それみずから存在する“最高の最初の原因者”を、私達は神と称するのであります。原因なくして、それみずから存在する根元的存在を“実在”または“神”というのであります。原因があって生じたものは、原因との相対的関係上、“現われている”ところの“象(カタチ)”であるから、現象というのであります。

 現象は、原因との相対的関係上あらわれていますから、原因が消滅すればその現象も消えるのであります。また原因が変化すれば、現象の姿も変化するのであります。現象は常に変化するものであります。原因なくしてそれみずから存在するものは、原因の変化によって消滅したり、変化したりすることがないのです。それは常住不変の存在であります。この常住不変の存在を“実在”というのであります。

 “実在”はすべての現象的存在の奧にある根元的存在であります。これが神であります。聖経「甘露の法雨」の中に、「聖・至上・無限」と示されています。無限とは「限るものがない」ことを示しています。神が無限であるということは、神の外に神を限るものがないことを示しているのであります。前述の聖経「甘露の法雨」の4節、5節を読みなおして下さい。

 宇宙はそれが実在する限り、それを構成する実質は“神”御自身によって成り立っていることを意味しているのです。谷口雅春先生は「宇宙の万象は“万象”と仮に云っても、“一つの神”の展開である。一神(イッシン)即ち万象である」と述べておられます。

 聖経「甘露の法雨」の神の項の9節、10節には、つぎのように書いてあります。

 9,この全能なる神、完全なる神の「心」動きいでてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る。

 10、万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、

   物質にて成るもの一つもなし。

 つぎに神は何処にいらしゃるかと云いますと、神は「どこにでもある」のではなくて、いずこも全て、神の内にある、即ち神でないところの物はないと云うのであります。即ち5節には「神は実在のすべてを蔽う」と示されているのです。前述した如くに、神は最高の第一原因者であって、生まれることなく、それみずから存在するものであります。ですから、神は“不生(フショウ)”であり、従ってまた不滅であります。    

(その1・終わり・841

 

み教えの基本 へ
総合目次 へ