“神”と“人間・神の子”の意義について

仙頭 泰

 

                   (その2)  

 谷口雅春先生は「巻き収められたフィルム一巻」と題して、つぎの様に述べておられます。

 「人間は神の最高の自己実現であるから、その顕現の姿がどのようであろうとも、また顕現は変化したり、生滅したりするけれども、顕現の奧にある人間の“実相”は“霊”なのである。“霊”とは“非物質”であり、“超エネルギー”であり、“心”以上のものであり、“個性”以上のものであるが、物質とも顕現し、エネルギーとも顕現し、“心”とも顕現し、“個性”とも顕現するものである。

 すべて顕現(アラワレ)は生滅し変化するが、顕現の本体であるところの“霊”は、それ自身のうちに万象(バンショウ)を“理念”の姿で内蔵するのである。それは朝顔の種子の中に、双葉からもろもろの葉の形、つるの形、つぼみの形、花の形……等々の一切が内包されているようにである。

 それは“時間”“空間”を超えた姿であること、あたかも巻き収めた一握りのフィルムの中に、あらゆる場面と数十年の色々の光景が、まだ映写せずにそのまま蓄えられているのにも似ているのである。」

 谷口雅春先生は「“霊”なる神の中には、すでに全てが存在する」と教えておられます。全てが存在しなかったら“無限”といえないのであります。神は無限であり、限りがないのでありますから、全てがすでに内にあるのです。そこで谷口雅春先生は、つぎの如く述べておられます。

 「神は既に無限を内に包蔵したもうから、それを時間、空間という“認識の形式”をつくって、その形式の上に置き並べて、自己が自己の内にあるものを自己鑑賞せずにいられないのである。」

 すでに全てがあるからこそ、神はそれを表現せずにはいられないと云うことになるのであります。谷口雅春先生は「“内”にあるものは“外”に表現されて、その存在の意義を完成する」と題して、つぎのように述べておられます。

 「歌手は何故、歌を唄わずにいられないのか。それは歌手自身の内に既に歌があり、歌の声の“美”があるからそれを表現せずにはいられないのである。画家は何故、絵を描かなければならない衝動にかられるのであるか。それは画家の心の中に、既に表現されるべき“美”のイメージがあるからである。

 作曲家は何故作曲したくなるのであろうか。彼は自己の内にある音楽的メロディが、中から表現する衝動として湧き起こって来るからである。“内”にあるものは“外”に表現せられるとき、その存在の意義を完成するのである。

歌手の“内”にある音楽美は、それが歌われて外に表現されたとき、その存在の意義を完成する。画家の“内”にある“美”のイメージは、それが描かれて“外”に表現されたとき、その存在の意義を完成するのである。“内”にあるものは“外”へと発動するところの陽性の力であり、“外”はその発動をそのまま受け止めて、それを形象(カタチ)にまで表現するのである。」

 私達の生命のあるところ、あらゆる種類の“美”があります。

「音楽の美、絵画的な美、彫刻の美、山岳の美、花の美、海洋の美等々。すべての美は“内”(霊の世界)にあるところの“美”が、“外”に表現されたものであります。表現の場とも云うべき、縦横厚みをもつカンバスにもあたるものが、空間の“ひろがり”と時間の持続であります。この時間空間のカンバスも、實は“神”の外にあるものではなくて、神の“内”より展開したる“認識の形式”なのであります。」

「神の内にある凡ゆる種類の美は、無量無限数であるといわれています。ですからこれらの美は止(トド)まるところなく発展するのであります。それは現象を見ると、互いに衝突したり、一方が他方を犠牲にしたり、互いに矛盾したりするように見えているけれども、それはある偏った立場から見るから、その様に見えるだけであって、神様そのままの立場(無立場の立場)から見れば、どこにも矛盾も衝突も犠牲もなく、最高の智慧と愛と美と調和とが合奏する交響楽のようなものである」と、このように谷口雅春先生は述べておられます。

 人間が“神の子”であるというのは、神の最高の自己実現であるという意味であります。本当の人間は霊的実在であり、神の最高自己実現であります。このことは、私達がしっかりと自覚しておかなくてはならないことであります。

 聖経「甘露の法雨」の中には「神は人間の光源にして、人間は神より出でたる光なり。

光のなき光源はなく、光源のなき光はなし」と示されています。つまり神と人間とは、本来一体であることが示されているのであります。

その2・終わり・ 82 ― 2 )

 

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