“神”と“人間・神の子”の意義について |
(その3) 仙頭 泰 谷口雅春先生は「“心”はものを造ることができる」と題してつぎの様に述べておられます。 「聖経『甘露の法雨』には『神が一切のものを造りたまうや……如何なる道具も材料も用い給わず、ただ”心“をもって造りたまう。”心“は全ての造り主、”心“は宇宙にみつる実質、”心“こそ”全能“の神にして遍在したまう』とあるのであるが、物質を材料としないで”心“でものを造ると云うことが、よく理解できないという人のために、少し説明したいと思う。」 そこで谷口雅春先生は、人間自身多くのものを造る時に、まず心の中に造るものを描くことから、はじまることを説いておられます。人間の心が、怒りの発作によって、毒性物質をつくりだすことも、すでに多くの人々に知られている事実であります。ですから私達がつねに、怨みとか不平、そして憤慨の念をもちつづけていれば、そのために生ずる不健全のホルモンによって、肉体の組織の各部に色々の不調和や、誤りを生ずることになるのです。 さて谷口雅春先生は、人間が小説を書いてその中に出てくる人々は、何時までも作家の心の中にあって忘れられないように、神の“心”に描かれて顕現した人間はいつまでも神の“心”の中にあると説いておられます。 「小説の中の人物は、作家の“心”の中にありながら、作家の個性を表現しながら、小説のページの上に、作家とは別のページの上に、独立した存在の如くそのページの上で泣いたり、笑ったり、恋したり、失恋したりするのである。その如く神の“心”に描かれて発生した人間は、常に神の“心”の中にありながら、地球上の“現世”というページの上に、喜怒哀楽しながら生きているのである。 あなたは地球上に存在する具体的な人間でありながら、同時に常に神の“心”の中にあり、小説の作家が自分の創作の中の人物を常に愛して慈しむのと同じように、あなたは神の“心”の中にいだかれており、愛されており、慈しまれているのである。」 人間は誰でも神の“心”のうちに常にあり、神から忘れさられることなく慈しまれ、愛されつづけられているのであります。谷口雅春先生は、つぎの様に述べておられます。 「あなたは永遠に神の心から離れることなく、永久に神の“心”の中に抱かれており、憶えられており、愛されているのである。そして神が時間空間を超えて永遠に、また久遠に生き給うが如く、あなたは永遠久遠に神の“心”の中に生き続けるのである。あなたは永遠久遠の存在であり、“死”は無いのである。」 私達は神の“心”の中に常に在って、神の“心”の中から逃れることは出来ないと、教えていただいています。そこで谷口雅春先生は、「あなたは常に神から愛されている“神の愛し児(めぐしご)”であるのである。この事をあなたは忘れてはならないし、この事をあなたは常に憶い出して感謝しなければならないのである」と述べておられます。 私達人間は、霊的実在であり、神の最高の自己実現であるのです。谷口雅春先生は、神は時間空間を超えた存在であり給うのであるから、神の心の中に描かれた人間も、時間空間を超越したところのものであり、この事を釈尊もイエス・キリストも自覚していたと説いておられます。 「ヨハネによる福音書」 第14章10節には、ピリポに対してイエスはつぎの如く云っておられます。 「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっていられるのである。」 イエスは神と人との関係を、“父と子”の関係になぞらえて説いておられます。聖経「甘露の法雨」のなかでは、神と人間との関係を、光源と光線の例でもって示され、本来一体であることを示しておられるのであります。光源があれば必ず光線があり、光線があれば必ず光源があるというわけであります。 神と人間とは本来一体であるのが実相であります。 (その3・終わり・84−3) |
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