“神”と“人間・神の子”の意義について

                (その4)
                           仙頭 泰


 谷口雅春先生は、イエスは「われはアブラハムの生まれる前より在るものなり」といって、神によって“超時の時”に人間は生み出された存在であることを、自覚していたのであると述べておられます。

 さらに谷口雅春先生は、イエスのつぎの言葉を引用しておられます。それは「ヨハネによる福音書」 第14章18節、19節、20節です。


「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしは私の父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」

 この言葉には、イエスと父とが一体であり、あなた(人間)とイエスが一体であり、父(神)と子と人間とが一体であり、父(神)の栄光を子(イエス)が持ち、子の栄光をあなたたち(一般の人間)が持ち、三位一体であることが示されているのであります。まことに人間は神そのものの延長であり、神の内に我があり、我の内に神があるのであります。法華経の“方便品(ホウベンポン)”の中には「久遠本佛(クオンホンブツ)――釈迦――

一切衆生」が、一体であることが説いてあるのであります。


これはイエスが前述の如く「天の父――イエス――あなたたち」が、一体であると説かれましたが、全く同じことなのであります。谷口雅春先生は、人間にとって何が最高の満足であるがといえば、それは絶対者なる「無限の価値」と一体であるという自覚を得たのに優るところの満足はないと、説いておられます。


現象界に属するところのものは、どんなに利益(リヤク)や功徳(クドク)がありましても、その得たところの価値は有限であって、やがて消えてゆく価値を得たにすぎないのであります。しかし自分の生命の本当の相(スガタ)が、久遠不滅の最高価値にましますところの神・如来と一体であるという無限価値を獲得した自覚を得たことにまさる満足はないと、教えておられるのであります。


さてここで谷口雅春先生は「真象(シンショウ)」と偽象(ギショウ)。実相を観ずるという意味」と題して、つぎのように述べておられるのであります。

「すべてが、絶対者にまします神または、久遠本佛如来より発せられた想念の展開であるという、根本真理に立ち戻って、もう少し考えることにしょう。これが“甘露の法雨”に示されたる“神の心、動きいでてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る”という真理なのである。


しかしここに注意しなければならないことは、“現象”とひとつかみに言ってしまうけれども、その現象の中には、實は“神のコトバ”の展開としての『真象』と、“迷いの心”の展開としての『偽象』とがあることである。『ヨハネによる福音書』の第1章の冒頭に“初めに言(コトバ)があった”と、過去形で書かれていることに注目しなければならないのである。


“言(コトバ)即神”であるところ実相世界において、“神の心、動き出でてコトバとなれば、一切皆善の現象あらわれて万物成る”のであり、それが実在界における“実在の現象”即ち“真象”なのである。わたしたちが“実相を観ずる”というのは、この実在界における“実在の現象”たる円満完全なる“真象”の相(スガタ)を観ずることなのである。」


そこで地上に天国浄土が展開してくるためには、実相のみを観ずることが大切なのであります。その時に、実相の円満完全な相(スガタ)がこの地上に展開してくるのであります。神想観を実修して、常に神との一体感を深めることが大切であります。

 

  (その4・終わり・844

み教えの基本 へ

総合目次 へ