「神の子」の自覚 

仙頭 泰

 

 私たちはいとも簡単に、「人間は神の子なんだよね。」「そうだよ。」と言いますが、神の子の自覚というものをどのように把握しているでしょうか。「本当の人間はこの肉体ではなくて、霊的じつざいなんだよ。」「私たちはこの世に魂の向上のために、自分で選んで誕生してきたんだよね。」「人間は輪廻転生しながら魂をみがいているんだ。」などなど、『生命の実相』哲学を通して谷口雅春先生から教えられたことを、簡単にくちにしていますが、どれほど腹の底からわかっているかと思います。

 谷口雅春先生がご在世中のことでした。私たちは山口悌治理事や田中忠雄理事を中心に、人類光明化運動は“人類の危機”を自分の心のうちに摂取した人々の菩薩行である。菩薩行とは自分がまだ完全に救われていなくても、率先して他を救おうとする維摩の説く生活であり、生長の家ではこれを如何に推進するかというので、谷口雅春先生の御著書『生命の実相』を初めとして、多くの御本の中から抜粋して「人類光明化運動指針」十三ケ条にまとめました。

 このなかには「神の子の自覚」に関する事柄が沢山でてきますので、今回はそれを学習しょうとおもいます。この「人類光明化運動指針」を谷口雅春先生が京都の宇治本山で夏行われた講習会で、解説してくださいましたものが『菩薩は何をなすべきか』という本であります。

今日、私たちのまわりではは、「いのちの本質とは一体何なのだろうか。」「われわれは、毎日生きているといい、また生かされているというが何のためだろうか。」「肉体が動く間は生きているといい、肉体が動かなくなったら死んだという。この肉体が地上に現れる前の状態、肉体が地上から消えた後の状態、これらは一体どのようになっているのだろうか。」

 「たった一度の人生だから何をしてもいいではないかと、他人に迷惑をかけても自分の欲望を満足させればよいではないか。」「人間はロボットと同じようなものだ、自分の気にいらないものは破壊してもよいではないか。人間は自分の利益だけ追及して好きなように暮らせばそれでよいではないか。」「大事なことは、個人の人権なんだ。」等々、色々な考え方が個人の自由の名のもとに横行している。この様な状態が続くことによって、本当に人間は幸福になれるのだろうかと、危惧せざるを得ない状態です。

 人生には「観ずる通りに現れる」「類は類を以て集まる。類でないものは反発する」という「心の法則」が作用し、この法則のもとで毎日の生活を送っていることを忘れてはならないのです。谷口雅春先生が常に教えてくださったことは、「自分が変われば世界が変わる」ということだありました。人生には色々な出来事が起こるでしょうが、それらの原因を他の責任にして、自分だけ良い子になろうとする「神の子」の生き方ではないところから不幸が発生するのであります。

谷口雅春先生は、「生長の家の教えはまづ自分がクラリと転回することです」と説かれ、三六〇度の「観の転回」をして自分というものを見直して、出来るだけ正しく大きく生かしてゆくことが、なお一層自分に深切なことになると説明しておられます。

その第四条に次のような文章があります。

 「神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現であると云う自覚は、『一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ』と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生ききる事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところからはじまる。」と書いてあります。谷口雅春先生はここのところで、「人間・神の子の自覚」とは「自己を一切者とする自覚」であると説明しておられます。神様が私を生んだから、私は神の子だという、漠然とした宗教感情にだけとどまることではなく、哲学的に解明することの必要性が書いてあるのです。

 谷口雅春先生は更に次のように説明しておられます。

 「即ち、自分というものは只の個人だと云うようなものではなくて、『自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである』と云うこの大自覚である。これこそが本当に『自分自身に深切であれ』ということであるわけであります。

 『自分自身に本当に深切である』と云うことは、自分の責任を回避すると云うことであってはならない。責任を回避しなければならぬような小さいものだと『自分自身』を思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになるのであります。だから自分を一切者とする此の自覚の発動こそ眞に『人間・神の子の自覚』の証左であるのであります。」

 この谷口雅春先生のお言葉は、今の日本人にとって、政治家、教育者、事業家、宗教家等々世の指導者といわれる人達は勿論のこと、われわれ国民一人一人にとって大切な「人間観」であります。谷口雅春先生は、われわれが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどのような環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だという自覚を得なくてはらないとも教えていただきました。

 「無門関」には「随所に主となる」という言葉があります。私たちは如何なる環境に置かれてもそれを開拓し乗り越えてゆく力が与えられているのであります。「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」というものを大きく育てなくてはならないと云うことです。

 ここで私たちは全ての人々に行きわたって、「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)」を開顕し確立することが重要であることを鮮明にするのであります。自由とか、平等とか、人権とか、ジェンダーフリーとかいっても、すべてみな人間なるものの実体の確立なしには在り得ないのです。

  私たち人間が肉体であるか、「神の子」であるか、また人間は「物質」であるか、「霊的実在」であるか、と云う根本が定まらないでいて、人権を主張するならば、人間は自由を求め、幸福を求めながら反対の方向に行くことがあるのです。

 谷口雅春先生は「肉体としての人間を理解せず『霊』として『神の子』として、神の霊が今この『肉体』と見える相(すがた)に変貌して天降っているのであると『人間』を理解することができた上で『今われ何を為すべきか』と考えたならば、強姦、殺人、強盗などをやるなど、そんな見苦しい卑しいことはとてもやれない。『神様が今天降って“自分”として顕現している』と思ったら、人間の行動はおのずから神聖になる」と教えておられます。

 古代の日本人はすべて、何某の命、何某の日子、何某の日女と自分自身をも呼び、他の人をも尊称していました。このことは日本民族が、「神の生命」そのものであり、それが天降って来たのが人間であるという、魂の自覚の伝統をもって日本人は日本民族の歴史を作ってきたと、谷口雅春先生は説いておられるのです。

 このようなすばらしい魂の自覚を持った祖先が建国した國に、今生まれて生きているということは荘厳なる事実であります。西洋では人類はアダムとイブのしそんであり、「罪の子」の子孫であるように説き、そのような「罪の子」の自覚を伝承しているのです。

 神の子が天降って、全世界を一つの家族のように仲良く助け合って生きて行く理想のもとに日本民族は大和(やまと)という国号の國を建てたということは、振りかえってみて新しい時代を作りあげてゆく光栄をになった国民であることを強く感じるのであります。

 (おわり)


 

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