「自他一体の神示」講義  

仙頭 泰

今回は「自他一体の神示」の学習をいたします。テキストは谷口雅春先生著「到彼岸の神示」であります。「自他一体の神示」は昭和七年四月号の「生長の家」誌に発表されたものであり、生長の家が発祥して三年目のときに出されたものであります。神示のはじめに次のように示されています。「『生命の実相』を読んで自分だけが真理を悟ってそれで善いと思うものはまだ生命の実相を悟ったものではない。」

谷口雅春先生のお話の中につぎのようなものがあります。生長の家の信徒の中には、奇跡的な治癒を得ますと「自分は真理を悟ったから、このような奇跡的な治癒を得たのだ」と云うような増上慢の心境になり、「もう私は人間・神の子の真理を悟ったから、神誌も聖典も読む必要はない」と云う人もままあります。それは丁度、病院に病気を治して貰う為に行くように、病気が治ったからもう病院は必要がないと思うのと同じように、自分の心の持ち方を変えて病気が治ったのだから、もうその事が分かったから生長の家に用事がないとして去る人もいるというのであります。

今思いだしますのは、これも神示に関連したことであります。それは、入信してまだよく真理も分からないのに、色々と不思議な体験をして、神様はすばらしいと、有頂天になって神さまを讃えていた人がいました。ところが、フトしたことから躓き、家庭に不幸などが起こったり、病気になったりした途端に、この人は今までとはうって変わって、「矢っ張り信仰しても駄目だ。神さまなんていないのだ。」と云って神様の存在を否定する人がいるのです。このような心境の人に対して、神示には、不幸・災難・病など不完全なものは神の創造ではないから「本来ない」のだと、あれほど教えているのに、何故「本来ないもの」に心をひっかけて、喜んだり、悲しんだりするのかというお言葉があります。私達は「本来あるもの」と、「本来ない」ものとの区別をはっきりと自覚することが大切なのであります。自分の都合によって、神様を讃嘆したり、誹謗したりすることは愚かなことであり、堅信ではないのであります。奇蹟は純粋な堅信のところ現れています。

谷口雅春先生は「人を病気から救うことも大切であるが、もっと必要なものは、人間の生命の永遠性を知らしめ、人間・神の子の真理を自覚して病気のみならず、人生一切の苦悩を脱却して地上に天国浄土をつくる運動に挺身する菩薩の境涯に至り得るまで充分に真理を知らしめることが大切である。」と教えておられます。私たちにとって大切な心境は自分だけ救われたらそれでよいと、自己満足することではないことを学ばねばならないのです。この「自他一体の神示」には「真理は自他一体のものであるから、ひとに伝えるとき、そこに『結び』の力が発現するのである。」と示されています。この「結びの力」が大切であり、大きな働きをするのであります。

「菩薩は何を為すべきか」という本の中で、私たちが自分自身一家の幸福・繁栄を念願することは勿論のことですが、そこで止まったのではいけないと教えられています。「自分に親切である」ことは勿論であるがと、書いてあります。ここで問題になるのは、ここで云う「自分」とは如何なるものを指しているのかを正しく知って、それを生活の上に生かすことであります。谷口雅春先生は「ニセモノの自分を去り、本物の自分を出して、『自分』というものをもっと大きく育てなければならない」と教えておられます。

生長の家の「立教の使命」とする人類光明化運動は、「第一に何をなさんとする運動であるか」というと、それは「神の子としての人間なるものの本当の相(スガタ)」を凡ての人々のうちに開顕し確立することによって光明化する運動であると明示してあります。私たちが、自由・平等・人権・民主主義・世界平和・政治・教育・労働などなどと云いますが、それらは皆人間なるものの実体が確立していなくては在り得ないことばかりであります。必要なことは、人間なるものの本当の相(スガタ)・実相が神の子であるということを凡ての人々のうちに開顕し確立することであります。人間がその本質を「肉体」と見るか、「霊的実在」であるかと云う根本の人間観の確立であります。

そこで、谷口雅春先生は、前述の如く「病気を治す愛他行も大切であるが、『人間を全的に救う真理』を施す『法施行』が重大な布施行である。『人間を全的に救う真理』は、人間の生命の実相は『神の子』であること、そして『神の創り給うた此の世界には一切の悪・不善・不調和・罪・悪業・神罰等は存在しない』という真理がある。書いて見れば頗る簡単明瞭な真理であるから、人はややもすれば、『もう自分は真理を悟った、これ以上、神誌も聖典も読む必要はない』と考え易いのも無理もない。その上『神罰は無い』という頗る明朗な宗教が“生長の家”であり、他の宗教のように『止めたら神罰が当たる』などおどかさないのである」(同書23頁)とお話しくださっています。

谷口雅春先生は「自分だけが真理を悟ってそれでよいと思っている人は、『まだ生命の実相を悟ったものではない』と、神は教えられているのである。何故なら、『真理は自他一体のものであるから、ひとに伝えるとき、そこに“結び”の力が発現する』と教えられている。人間の生命は、神より出て、すべての人類は『神の生命』を宿しているので、自己の生命と、他己の生命とは一体である。だから他の人たち全部が真理を悟らない限り、自己は真理を悟っていないのである。」(同書24頁)と教えておられるのであります。

 続いて、谷口雅春先生はつぎのように述べられています。

「菩薩たるものは人類全体の苦悩を自己に摂取する結果、人類すべてが苦悩を脱しない限りは自己の苦悩が去らないのであり、聖者は永遠に人類救済にその全力を尽くすのであります。即ち『衆生病むが故に我れ病む』と云うのであります。『衆生は病むけれども、私だけは悟りを開いているから幸福で明朗だ』などと考えるのは、中途半端な悟りであり、利己主義につながるニセモノの悟りであります。神さまは「神の人類光明化運動に協力せよ」と仰せられているのでありますから……。」(同書24頁)続いて次のところを拝読いたします。

「神さまは人間を愛したまうばかりで、神罰を与え給うことはないからであります。しかしお蔭を受けながら、『去ってしまう』ということは、其処に『結び』の力が発現しなくなる。そして『結びは愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力』と示されてありますように『結びの力』が発現しなくなると、自然に自分の運命が消極的になり、伸びなくなってしまうのであります。それが不幸のもとになるのであります。」(同書25頁)つぎに「実相を観ずる歌」を見てみましょう。

「実相を観ずる歌」には、「神は生命にして、吾れは神の子なれば、吾れはすべてを生かし、すべては吾れを生かす。神は愛にして、吾れは神の子なれば、吾れはすべてを愛し、すべては吾れを愛す。神は智恵にして、吾れは神の子なれば、吾れはすべてを知り、全てのもの吾れを知れり」とあります。そして「神はすべてにして、吾れは神の子なれば、吾れ祈れば天地応へ、吾れ動けば宇宙動く。吾れ坐す妙々実相世界、吾身は金剛実相神の子、萬づ円満大調和、光明遍照実相世界」と結ばれています。なんと云う力強く素晴らしいことでしょう。

谷口雅春先生は講話の中で、よく懐中時計を聴衆に示されながら色々な例え話をしてくださいました。その中の一つに次のようなものがあります。複雑精巧な機械でも部分品を結び合わすことによって出来上がるのであり、バラバラに解体して部分品にしてしまったら、どんな精巧な機械でも成りたたず、動かなくなるのであります。即ち、萬物も“ムスビの力”によって有機体となり、秩序整然として動くようになるのであります。その“ムスビの力”こそ万物を生々化育する生命発現の力であり、一切のものを醸成する力であり、それが愛の力であり、慈悲の力であり、神仏の力なのであるのであります。

時計を構成している歯車にしても、大小さまざまな形をしたものがあり、左に回るもの、右に回るもの、一見してお互いが反対方向に回って対立しているように見えるものがあります。しかし、みんなが仲良くよくかみ合って、助け合って動くときには時計として、時間を正しく示すと云う使命を果たし、部分品のすべてもまたすべて生かされるであります。これと反対に歯車同志が、「自分は自分、他人のことを知ったことではない」などと、自分だけよければそれでよいのだと考えて、全体の歯車のことや、心棒やその他の部分品などとの関係を断ち切ることをすると、「全体なる時計」としての働きが出来なくなり、時計としての時刻を正確に示すという使命が果たされないことになり、その結果として、歯車をはじめ精巧な部分品もその個性を発揮出来ずにすべてが、お蔵入りになり駄目になるのであります。「個と全体」との関係をよくよく考えなければならないのです。全体のいのちを殺し、個のいのちを殺し、結果としてすべていのちが滅亡への道を歩むことになるのであります。現在の社会現象には個と全体の生かし合う関係が混乱していることが多いことに、国民は反省しなくてはならないと思います。 

「『自他一体』の自己の“生命の実相”の真理を幾分でも知った以上は、自他一体なるが故に全世界がこの真理によって救われるまでは、この真理の宣布を根かぎり、精力の続くかぎり、行わずにはいられない筈です。この心境に達したというのでなければ、生命の実相の悟りを得たなどと、口幅ったい事は言われない訳であります。」(同書26頁)このように私たちは谷口雅春先生から教えられているのです。

私たちが「人間・神の子」の真理を悟ったと言っても、その悟りの深浅には千変万化があるのであって、それによって私達の環境の状態も千差万別しているのであります。白隠禅師の悟りの話は有名であります。白隠禅師の悟りは「大悟十八回、小悟は数知れず」と言っておられるのであります。「自他一体」の真理の実践が「結び」というのですから、「自他一体の真理」が分かったら、「立ち向かう人の姿は鏡なり、己が姿をうつしてや見ん」という言葉がありますように、自分の心の姿が相手に反映してあらわれてくるのでありますから、私達はこれにより自己反省をするのであります。自他一体であるという真理が分からずに、相手は相手、自分は自分と、互いに切り離してバラバラになることは、「心の刃」で相手を切ることになり、そこから発生するものは、破壊であり、混乱であります。建設ではないのであります。

「無形の『道理』なるものを神と云うのであります。結び合わす働きが神であり、『道というものは、離れているものを結び合わす働きがあるから道即ち神である』と示されている所以であります。日本の古典では、高御産巣日神、神産巣日神というようにムスビの働きが、造化の神(宇宙創造の神)となっているのであります。ムスビの働きがなければ何物も産み出すことはできません。智恵ばかりが明らかで、批評精神ばかりが鋭くては、批評の鋭さというものは『切る』(分析)はたらきでありますから、ムスビの反対で、神には遠い存在だと示されているのであります。」(同書28頁)と、谷口雅春先生は述べておられます。ここでは、「陰陽の調和」というものが、家庭・社会などで、その分に応じて発揮されるときに、其処は明るく楽しく素晴らしい環境が現れてくることを強く感じます。つぎを読んでみましょう。

「現象にどのような欠陥があっても、互いにその実相の完全さを見て、その実相を拝み顕すようにすれば、どんな仲の悪い夫婦でも仲が良くなるものですから、離婚などの不祥事の起こらないように円満に結んでやるのが神の道だと仰せられているのであります。」(同書29頁)ここで思い出されることは「常不軽菩薩行」であります。どのように現れて見えている人にも、神性・佛性が宿っていることを、堅く信じて、常不軽菩薩のように相手の「実相」を拝んで、拝んで拝み出すことのすばらしさであります。「実相を拝む力」は偉大な力であります。常不軽菩薩行は自らを反省させていただき、向上する機会を与えてもらうのでありますから「ありがとう」と感謝の念を込めて拝み抜きましょう。自己反省をし、自助努力して、自己の神性・佛性を一層強くあらわすことが大切であります。光の燈台となることです。「闇に対しては光をもって相対せよ」であります。泣き言を言う暇があれば、強力なる感謝の念を天地万物に向かって発射しましょう。「大調和の神示」の中には「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう」と明示したあります。谷口雅春先生は、「他人に感謝をすることは皆がよく実行しているが、自分にも感謝することも忘れることがないように」と、注意して下さいました。自己自身を素晴らしい神の子と讃嘆して、そのように行動をしていきましょう。

谷口雅春先生は「生長の家の教えは、各人の内に神が宿っており、その『内在の神』が『普遍の神』に感応道交する媒介になるのであるから、『もうその真理を教えてもらったら、教えの先輩も、自分と同等である。何も先輩を通さなくても、神想観をして神と直接交通して導きを受けることが出来るのだ』という訳で、神さまと自分との間を橋渡しして下さった人や教団の恩恵を忘れてしまって、その橋渡しして下さった人や教団をないがしろにして、自分だけで真理を発見したかの如く装い、自分が真理を知らされた教団から離れて独立運動を起こしたり、更に自分を導いて下さった師や教団の悪口を言って“自分の方が優れている”などという言辞を弄するようになれば、全く忘恩的な背徳行為であり、それはムスビの神徳に反するばかりでなく、互いに『切る』働きになるから言語道断だと言うほかはない。」(同書30頁)と教えて下さっています。

「自他一体の神示」には「日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ国民であるから強いのである」と示されています。そしてその次に「今度の戦いは国民の魂の質から言えば知恩と忘恩との戦い、『結ぶ』働きと、バラバラに分離する働きとの戦いである」と示されているのであります。「自他一体の神示」は昭和七年二月四日神示とありますが、その前の昭和六年には満州事変が勃発しています。私たちも谷口雅春先生も、大東亜戦争を体験して生活してきました。そこで、谷口雅春先生は、この神示についてどの様な解説をされたか、述べてみたいとおもいます。

「『今度の戦いは国民の魂の質から言えば知恩と忘恩との戦い、結ぶ働きと、バラバラに分離する働きの戦いである』と示されているのは、対外的な戦争のことではありません。対外的戦争では『知恩と忘恩との戦い』などという語は当て嵌らないのであります。これは大東亜戦争前からズッと続いて今も現に継続しているところの、天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者―― 一言にして言えば愛国者 ――と天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという所謂『赤い思想』の者との戦いのことを指していられるのであります。」(同書31頁)と説明をしておられます。現代の日本の世情は皇室典範の唐突な改正を初めとする日本の実相を眩まし、日本の文化伝統や歴史を壊滅させる運動が色々な美名のもとに隠れて、数多く発生している状態であります。これは、まさしく古事記にあります通りの「蛆がグジャグジャと湧き出て、その腐敗の様はすざましく、見るに堪えられない状態」をピッタリと表現しています。

谷口雅春先生は、「『国家』という綜合されて有機的に一体となっている『生命体』の尊厳をみとめず、『人民』という個々別々のものを主権者とする思想が、国家を『バラバラに分離する働き』なのであります。皇恩、國恩、父母の恩等に反対するマルクス主義の攻勢とそれに対抗する日本国内の思想戦争は既に大正年間に始まっていたのでありまして、法学博士渡邊鉄蔵氏は、“『共産主義の白書』の刊行に際して”と題するパンフレットの中にも、その対立抗争を五十年間の歴史を追うて叙述しておられます。次にその一端を引用して、知恩と忘恩との国内思想戦の有様を明かにしようと思います。」(同書 31 頁)と述べられて渡邊鉄蔵氏の文章を紹介しておられます。

 

以下、渡邊鉄蔵氏の文章です。

「私は大學教授生活十三年の後、大正十五年東大教授を辞任したのであるが、私の退任後はマルクス学派の攻勢が益々盛んになったようで、大内兵衛君を旗頭とするマルクス学派と、土方成美君を中心とする反マルクス学派との抗争は絶えなかったようである。そして、昭和三、四年頃より東大学生の間に共産主義に囚われる者が増加して種々の問題を起こし、学生の父兄が先輩教授を訪れて、子供が退学をしてもよいから、赤くなることだけは何とかして防止して貰いたいと依頼するような情勢であった。……

「昭和五年から十一年迄の七年間は陸軍将校の櫻会結成、三月事件、十月事件、満洲事変、血盟団の暗殺、五・一五事件、神兵隊、士官学校事件、永田暗殺等から遂に二・二六事件の爆発となった日本の悩みの時代である。“アントン・チュシカ”はその著『世界に於ける日本』において之を“農民と陸軍による革命”と称しておる。当時農村の疲弊就職難等の社会現象はあったが、それが左翼の思想によって拡大されて、右翼的革命の形で出現したのである。当時の立役者北一輝、大川周明、西田税、橘孝三郎、橋本欣五郎等の主張にもそれが見受けられる。そして政党政治に対する軍部、殊に青年将校の不満が巧みに利用せらたものと思う。……

「昭和六年春、或る人が私を訪れて、社会主義者が日本では天皇にたてをついては革命が実現できないから、自ら天皇をかついで、錦旗革命と称して之を実行する方針を定めたと注進して来た。その時は私はあまり気にとめなかったがこの事はその後追々事実となって現れて来た……(中略)

「……支那事変より所謂る大東亜戦争の至る間に日本ではいろいろの宣伝が行われ、また変わった政策が行われた。……不思議なことにその頃「臣道実践挺身隊」の名の下に市中に散布されたビラには『天皇に経済奉還』『土地国有』『銀行国有』その他国家社会主義的の政策が掲げられてあった。又昭和十六年一月二十七日、大政翼賛会宣伝部の佐々木信義というものが日魯漁業の本社で行った講演及び座談会では三大根本理念と称して

  1,吾等臣民の生命財産は天皇の御所有となるべきである。

  2,一切の生産設備は天皇が所有し、天皇の名により運営さるべきである。

  3,吾等臣民の職域は天皇により与えられ、従って吾等の生活費は天皇に
    より支給さるべきである。……

「ソ連では、レーニンは社会に財産を奉還せよと言ったがこれは、天皇に経済奉還を説いておる。即ち共産党による共産主義政治の代わりに天皇共産主義を実行しようというのである。昭和六年或る人が私に告げた日本の共産主義者の錦旗革命というのはこのようなことであろう。日魯漁業はソ連に親しいから、かような人物に利用されたのであろうが、その当時はこのようなことが方々で起こっていたのである。又、この頃盛んに八紘一宇、大東亜共栄圏、新体制、新秩序ということが宣伝されておった。更に天皇親政論、戦争讃美論、天皇世界支配論、高度国防国家論等を唱えておった一群の学者がある。

然るにこれ等の者は戦後一団となって戦前と反対に天皇制を誹謗し、再軍備に反対し、安保条約に反対し、日教組の講師となってその反国家的活動を指導し、その或る者は明確に共産党員となっている者もあるが、多くの者は常に共産党フロントとして活動を続けておる。即ち彼等の宣伝した新体制、新秩序とは共産主義のことであったのであろう。八紘一宇とは国際共産主義のことであったのであろう。彼等の天皇親政論は錦旗革命のことであったのであろう。

全貌社発行の『学者先生戦前戦後言質集』改題版『進歩的文化人』中にこれ等の者の名が列挙してあり、彼等の戦時中の言動と戦後の言動とを比較してある。これによればその罪最も重きものは学習院教授清水幾太郎、静岡大学教授鈴木安蔵。堀

真琴、末川博、柳田謙十郎、宮原誠一、宗像誠也、長田新その他である。多くの人は彼等をオポーチュニスト(註・機会便乗者)という。しかし私はむしろ是等の者の本性は元来社会主義もしくは共産主義者であり、戦前及び戦争中の政治情勢の強烈な時には仮面をかぶり、或いはその世相を利用しておったのであって、戦後共産党勢力の勃興と共にその正体を現した者と信じる。

昭和十五年、六年頃、上海で発行されておったツゥエンティ・センチュリーという英文雑誌を購読しておった際、その中のある論文に日本の社会主義学者が資本主義国同志と戦わしめて、その双方の疲弊した機会を利用して共産主義を推進すべしという説を唱えておるとのべておったことを記憶しておる。

私はこのような所謂進歩的文化人こそ錦旗革命や資本主義国間の戦争を煽動した責任者の一部であろうと考えておる。是等の進歩的文化人は彼等の極力煽動した大東亜戦争の結果、日本が焦土となって思想の混乱しておるのを好機として、共産革命を図ろうとしておるのであろう。………」

 

以上の渡邊鉄蔵博士の文章を読んでみると、この神示・「自他一体の神示」に書かれている「今度の戦いは国民の魂の質から言えば、知恩と忘恩との戦い、『結ぶ』働きとバラバラに分離する働きとの戦いである」という意味が分かるような気がするのであります。

谷口雅春先生は「魂の質から言えば、天皇の恩を知り、国家の恩を知り天皇制を護持しようとする側と、従来の恩恵を撥無して国家をバラバラに分断して天皇制を破壊しようという側とが卍巴となって混戦状態にあり、この神示の出た頃には、一時的方便として天皇を金看板に使いながら、日本国を焦土として、結局共産革命にもって行こうとしていた所謂進歩的文化人があったことは明らかであります。

『天皇の御命令だ』という金看板で我意を遂行しようとしていた当時の軍閥の中にも、社会主義革命遂行の前哨戦的手段として戦争を煽動していた者もあったのは事実で、日本が戦争に負けた一つの原因も、そのような背信行為に裏をかかれて戦争すべからざる時期に戦争をしたことにあります。併しやがてはバラバラに分離する働きは自滅して、世界全体が一つに融合する時代が来るに相違ないのであります。」(同書36頁)と述べておられるのであります。

「最後に、日本の医学は人間全体を見て、適当な処方をしますが、西洋の医学は分析と解剖の医学であって、バラバラに切り分けて分解する医学であることが指摘されていいて、人間全体を見てその精神診断をして、その精神を変化せしむることによって癒やす日本の医学とが対比されているのであります。胃癌なども分解、分析、解剖の医学では未だに原因もはっきり分からないが『生命』それみづからを扱う『生命の実相』の哲学によって精神を調和した状態に導くことによって多数に治っているのであります。まことにこの神示の通り『生命は綜合の統体』でありますからバラバラの医学では解らぬ」のであります。(同書36頁)

「上求菩提・至心求道(ジョウグボダイ・シシングドウ)」という言葉がありますが、ただ単に自分の悟りを深めることを追求して、ひたすらに静座三昧・聖典讀誦三昧をすることだと解釈して、清く行いすましているだけでは、「自利利他の修行」をしている菩薩としては足りないことになるのであります。本当の悟りは“自他一体の生命”の自覚でありますから、自分だけ心境を浄めて、自分だけ救われたらそれで好いと考えるようでは、「自他一体」を自覚していないのだと、繰り返して谷口雅春先生は教えてられたのであります。

人類光明化運動指針の第四條のなかにある言葉を思い出します。

「一切の衆生が残らず救われてしまわなければ『吾れ正覚をとらじ』と誓われた御佛の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ真に神の子の自覚の証左である。さればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思い知るべきである。」

また「聖使命菩薩讃歌」に「菩薩は如何なる人なるや、菩薩はすべての人類を、自己に摂取し苦をのぞき、楽あたへんと決意して、愛他にはげむ人なるぞ、愛他にはげむ人なるぞ」とあります。私たち「聖使命菩薩」は闘争精神を「吾ら菩薩のコトバにて、菩薩の集団祈りにて、鎮圧すべく揮いたつ」と、世界浄化するために、神の加護を信じて現象処理に邁進いたしましょう。                

(おわり)            「学ぶ誌」・平成 18 年 8,9,10 月掲載

                



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