如意宝珠の自覚 仙頭 泰 |
生長の家では、現象というものは、「心の影」であり、私たちが自分の心の中に描いたものの現れであると教えています。「心の影」でありますから、形にあらわれたら、その心の中の思いというもの、即ち念は消えて無くなるのであります。ですから、今の私たちの生活に現れている状態は、過去の想念の消えて行く姿なのであります。 谷口雅春先生は、次のような譬え話をして下さいます。ここにローソクがあり、その芯にマッチで、火をつけますと、ローソクが燃えはじめます。私達はローソクの火が燃え続けていると思います。確かに目で見れば、ローソクの焔はジーッと燃え続けています。しかし、本当は蝋が燃えて消えてなくなり、次の蝋が燃えては消えて無くなり、また次の新しい蝋が燃えては消えてなくなっているのであります。 ハワイでいうなれば、ワイキキの通りにトーチランプが夜ともなれば、美しく燃えています。確かに燃え続けているように、私たちの肉眼には見えます。しかし、よく調べてみれば、ガスが出てきては焔となって燃えて消えてなくなり、つぎの新しいガスが出てきては、燃えて消えていっている、この現象の連続であります。ですからガスの供給を止めれば焔は消えて無くなるのであります。 このように、現象といものは、私たちの念が形にあらわれては、消えていく状態なのであります。現象は常に変化するものであります。私たちは、この地上で魂を向上させるために人生学校に入学して、人生での色々な出来事を通して、魂を研く勉強をしているのであります。人生には、色々な教科書があり、宿題があり、テストがあります。一つ一つ修了するたびに、どんどん向上しているのであります。この現象世界における、環境や運命など、いろいろな事象は、自分の「観ずる通りにあらわれて来る」ということです。 神様は宇宙の法則を使用することについて、人間に使用制限を与えてはおられないのです。神さまは人間を神様の奴隷として此の世に誕生させられたのではないのです。神様の一人子として、神様の可愛い、いとおしい子供として、私たちひとりひとりをこの地上に誕生させられたのであります。聖経「甘露の法雨」には「人間・神の子の自覚より、神の子・人間の自覚に超入せよ」と教えられています。谷口雅春先生は、講話のなかで、「犬の子はなんですか?犬の子は狼ですか?違いますね。犬の子はイヌですね。では、ネコの子はなんですか。豚ですか?違いますね。ネコの子はネコですね。そのように、神の子は神なんですよ。」と教えて下さいました。 私たちは、もともと神の子であり、それが人間として、この地上に天降ってきて、人生学校で魂を研くために修行しているのであります。 私たちは、生まれながらに原罪を背負った罪人ではないのです。神様の生命をいただいた、聖霊受胎のすばらしき神の子です。ですから、自由自在にこの現象世界で表現することができるのです。私たちは、神様の栄光をこの地上に顕現するために誕生してきたのです。此処で大切なことは、神の栄光を顕すことであり、自分の我欲を現すことではないのです。ですから、さきほど述べましたように、宇宙の法則の使用方法によって、天国の状態も現すことも出来ますし、また地獄といわれる状態を表現するこも自由に出来るのであります。ですから、宇宙の法則を、自分が如何なる立場に立って使うかが、問題となるのであります。人間には自らの道を自由に選ぶことが神さまが与えられ、そして永久に魂の進歩を遂げていくのであります。 生長の家には、三十三の神示があります。そのなかでも、最も中心となる神示は「大調和の神示」と呼ばれるものであります。此の神示には「天地一切のものと和解せよ」「天地一切のものに感謝せよ」と示されているのであります。そして「感謝の念のうちにこそ、神の姿を見、神の救いを受ける」と明示してあるのであります。この「感謝」という心、「感謝」という行動、「感謝」というコトバ、「感謝」という表情・態度、それらを雨あられの如く周囲にまき散らすことは素晴らしいことであります。与えて与えて、与えきることです。その対価を求めないことです。太陽の如く、与えぱなっしでいることです。 生長の家では、「喜べば喜びが来たり、怒れば怒りが来たり、憎めば憎しみが来たり、悲しめば悲しみが来たり、人を審判(さば)けば自己もまた裁かれる」と教えています。また「平和なるもの神の国を嗣がん」、、「野蛮な暴力は、優しい愛の力に及ばない。」、「荒れ狂う暴風の力は、優しい太陽の力には及ばない。」、「自利的行為は却って自己破壊行為である」などなど、「智恵の言葉」で教えられているのです。常に光輝く愛にみちたコトバを活用することみちたにより、人生の勝利者となるのです。これは「類は類をもって集まり、類でないものは反発する」という「心の法則」が現象世界では作用するからであります。 生長の家には、聖経「甘露の法雨」があります。ここには「神・霊・物質・実在・智恵・無明・罪・人間」と八項目にわけて、神理が説明してあります。聖経は宇宙の神理が「言霊(ことだま)」として、ちりばめてあり、霊眼で見れば、光輝くオーラーが燦然として放射されているのであります。ですから、お守りとして、常に携帯するだけでも不思議な出来事が起こってくるのであります。聖経の讀誦することにより、すばらしい果実が実ってくるのであります。聖経は、その御文章の内容を噛みしめながら拝読すれば、その言葉の響きにより、一層素晴らしい波動がみちみちて、宇宙に実在する神理と波長と合致して具体的に素晴らしい結果を現象界に結ぶことになるのであります。谷口雅春先生は、聖経の内容を解説したものが「生命の実相」という本になったと説明されています。ですから「生命の実相」という御本からも、霊的な素晴らしい雰囲気が放射能のごとく出ていますので、居間に置いてあるだけでも部屋は浄化され、安らぎを感じる空間となるのであります。 生長の家のマークにしても、不思議な物語があります。谷口雅春先生は万教帰一・人間神の子を表徴する印を創ることを思われました。そして出来あがったものは、現在私たちが胸に附けているピンであります。実はこの印が出来上がって、人々の眼にふれる前に、当時大阪の生長の家の門脇寛次郎さんが神想観をしておられる時に観世音菩薩が現れたというのです。そしてその時に観世音菩薩の宝冠の真ん中に不思議な印がついていたと言うのです。その印が深く心に残っていたのです。そして、生長の家のマークが発表された時のことです。これを見た、門脇寛次郎さんはびっくりしたのです。何処かで見たことのある印だと考えたときに、「ああ、そうだ。三年前に神想観をしている時に観世音菩薩があらわれて、あの宝冠の真ん中に在った印だ」と思い出したのであります。生長の家のマークは、地上に現れる三年前にすでに神様の世界では創られていたのです。このような神秘現象をもつ生長の家の印でありますから、このピンを胸に附けているだけで不思議な体験があり、自動車につけていているだけで、不思議な体験をした人もあるのです。すばらしい生長の家のピンを胸につけて、神の子の誇りをもって毎日の生活を元気いっぱいに送りましょう。 「神真理を告げ給う」という本があります。この本の中で、神様がつぎのように述べておられます。 「“わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、それに基づいて思索をし、既に人生の意義を知ることの出来た人もある。しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中をウロチョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、“聖なる求め”を放棄している人もある。そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」このように神様からの啓示があるのであります。 ここで思い出しますのは「生命の実相」第一巻にあります「生長の家とわたし」と題する御文章であります。このなかに、谷口雅春先生が机に向かった一生懸命に原稿を書いておられるお姿を当時埼玉県に住んでいた笠原という青年が透視したというのです。谷口雅春先生のお姿が神々しい神様のお姿に変わってしまったといのです。そして早い速度でペンが原稿用紙の上を走っていくのを見たという記事であります。これは生長の家の発祥の頃の話であります。そして今長い年月がたって「神真理を告げ給う」という本が現れ、その中に先程述べましたような神様の谷口雅春先生に対する啓示が述べてあります。谷口雅春先生はご生前、つねに「私は教祖ではない。神のラッパである。生長の家の本部は実相世界にある」と言っておられました。 これらのことを、総合的にみるだけでも、生長の家の出現というものは、人間の計画で始められてものでなく、神様の計画により、数々の神秘な事象をもって、この地上にあらわれてきたものであることが、よく分かるのであります。神示の中には「完成の燈台」に灯を点ずるという言葉が数多く出てくるのであります。人々を救うべき、真理の燈台であるべき宗教が、その光がかすみ、あるいは消えて無くなろうとしている、この人類の危機のときに、その真理の燈台であるべき宗教に、再び真理の灯を点ずる大きな使命をもって現れたのが、生長の家なのであります。ですから、神示の中には「神の人類光明化運動」という言葉がはっきりと示されているのでありまして、人間が人間を救う運動が、生長の家の運動ではないのであります。常に神の御心を私たち一人一人が、受けついで、その御心を「神の人類光明化運動」として、展開させていただいていることを忘れてはならないのです。 「詳説神想観」という本の「はしがき」には、神想観の実修によって、真理をただ単に知識として知るだけではなく、全身心でもって体得して、この現象界における色々な束縛から解放されて、自由自在の境地に進んで欲しいという谷口雅春先生の、私たちに対する願いと同時につぎのような言葉でもって、「はしがき」を結んでおられます。 「これは(註・神想観のこと)神授のもであって、私自身も、これによって尚、修行中であることを申添えて置く。」とおっしゃておられるのです。 なんという謙虚な御言葉であり、無限向上を目指して精進されるお姿でありましょう。谷口雅春先生はこのように偉大な霊格をもたれ、万教帰一の幡のもと、人類無罪宣言をされ、「神の人類光明化運動」をこの地上に展開されるために、天降ってこられた方でありました。私たちは、このように偉大な谷口雅春先生から、そのみ教えを学ばせていただく、ご縁を得ましたことは、本当に有り難いことであります。 この偉大な霊的導師である谷口雅春先生のみ教えに、今ふれて神理を学んでいることは、素晴らしいことであることを、もう一度改めて感謝いたしましょう。 私たちが神の子として、この人生学校におきまして魂を磨き上げていくための、その導きの要目が「生長の家信徒行持要目」であります。常にこれを、自己反省の材料として無限向上の道を歩みつづけましょう。神様は「汝、一人ならば我とともに二人なりと思え。汝、二人ならば我とともに三人なりと思え」と告げておられます。なんと有り難いことでしょう。常に神さまは、私たちを守り導いてくださっているのです。 聖経「天使の言葉」には、「肉体を去りたる『念』は。その念の力にてなお一つの個性を持続し、幽界において生活をつづけん。汝らの霊魂と称するもの是にして、『念』の浄まるに従ってそれに相応わしき高き霊界に入り、『念』の浄まらざるものは、それに相応しき環境を『念』の力にて仮作し、その環境にいて苦しまん。されば汝ら、常に心を高く持して苟も悪を念ずること勿れ。苟も不浄を念ずること勿れ。また苟も病を念ずること勿れ。」と示されてあります。「念の浄化」と言うことが如何に大切なことであるかが、よく分かるのであります。 生長の家では、「コトバの力」ということを教えられます。日本では昔から「言霊(ことだま)」といって、私たちが日常使用する言葉にも、あるいは文章に書く言葉にも、それぞれなりの具象化する力のあることを知っていました。ですから、穢い言葉や罵り争う言葉など、人や物をきずつけ、破壊するような言葉を使用することを嫌ったものであります。逆に美しい言葉、感謝する言葉、讃嘆する言葉を使い、「けがれた言葉」を浄化したのであります。そいて「ことだまの栄える国」と日本の國を讃えました。生長の家では、浄心行としての行事になっています。 「コトバの力」という場合の「コトバ」とは、私たちの表情・態度もコトバであり、心のなかで念ずることもコトバであり、私たちの口からでる言語も勿論コトバであります。これなのものを包括して「コトバ」といい、この「コトバ」には、現象界に物事を作りだし、動かす力があるのであります。私たちは「コトバの力」により、自分の好むような運命や境遇を作りだしているのであります。この現象界は自分の思うようにはならないと思っている人でも、よく考えてみれば、「思う通りにならない」という自分の思っている通りに結局なっているのです。 つまり、私たちの人生は、結局自分のもっている観念の通りに現れてきているのであります。私たちは「観の転換」をすることによって、今までとは異なった環境・境遇を歩むことが出来るのであります。集団であれば、その集団を構成する人々の総括された観念によって、その構成団の運命がきまるのであります。観とは、ものの考え方であり、ものの見方であります。人生観、社会観、人間観等々色々な観がありますが、現象世界は「観ずる通りに現れる世界」であり、変化極まりない世界であります。生長の家では、実相の世界の実在を信じているのであります。聖経「甘露の法雨」の中には、イエス・キリストの言葉として「この世の国は、わが国に非ず」とあります。実相の世界こそが、私たち人間の常住の世界です。聖経「天使の言葉」によれば、そこには「『生長の家』無数に建ち並びて甍列をなし炊煙春の霞の如く棚引きて住民悉く鼓腹撃壌し、其処はただ常楽の世界を現じたりき。」と表現されている世界が現れてくるのであります。 谷口雅春先生は、「ある佛教のお坊さんが『実相というものは無相であって空気みたいに肉眼に見えない世界で、具体性の無い世界が実相である』と説きました。そういうように思っている人があるけれども、現象世界よりずっと具体性のある世界が“実相世界”であります。『実相は空なり』などという言葉が佛教にはありますけれども、空という字は空(ムナ)しいという字だから『実相が有るやら無いやら訳が解らん』と思っている人が、たまにある。しかし、そうではないのです。」と述べておられます。この現象世界の方が、変化極まりないので、諸行無常なのであります。 この「実相の世界」は観ずれば現れると谷口雅春先生は教えてくださっています。これは四国・愛媛県の秋月輝子さんと言われるご婦人が谷口雅春先生に「生命の実相」について質問をしたときのご返事の手紙であります。次のように書かれていますのを、紹介いたします。 「生命の実相と申し候事は、此の世界が此儘神の国であり人間は其の儘神の子なりと申事に候 観ずればそれが現るるものに候 観ぜざれば現れる事なし さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 現象に如何なる悪顕れ申候ともいづれも神の作り給へる実在には無之候間気にかけずに唯実相円満なる相のみを観ずれば結局は円満なるのに有之候」 「観」の中でも、大切なものは、人間観であります。つまり人間とは何かということであります。現在では、人間をロボットのように考える唯物的人間観が、はびこっていますので、人を殺すことも、物を破壊するのと同じように、良心の痛みを感じないで殺人をするようになりました。神も仏もないと平気で口にする人間がふえました。親が子供を殺す、孫が祖父母を殺し、子が親を殺す。自分の気にいらにからと言って関係の他人でも簡単に殺す。このような動物の世界にもないような事件が発生する状態になりました。今こそ人間がこの地上に誕生した意義を声を大にして伝えて「人間観」の転換をしなくてはなりません。 私たちは、この地上に神の栄光を現すために、神聖受胎して、地上に誕生した霊的実在であり、久遠生き通しの生命であります。このようなすばらしい人間なのであるという霊的実在の人間観をもつことが大切なのであります。政治・経済・教育や世界平和についても、色々なこの現象世界の出来事を操るのは、みな人間であります。そうですから、どうしても人間とは一体何であるかと、人間なるものの本質を正しく把握して、現象界の諸行事が行われるようにしなくては、人類の幸福も、繁栄もないのです。生長の家では、「神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を凡ての人々のうちに開顕し、確立することによって光明化する」ことを第一にすると、宣言しているのでだあります。全人類が、お互いに感謝・合奏・礼拝し合うところから破壊は起きないのせす。神さが顕れたら、そこは「善となり、義となり、調和自ずから整う」世界になることが、聖経「甘露の法雨」に示されているのであります。 「真理の言葉」を雨ふらすことです。「コトバの力」こそ大切であります。私たちは、誰でも如意宝珠をもっています。如意宝珠とは、如意自在の宝の珠という意味であり、是には潮満珠と潮干珠と二つの珠があります。潮満珠の力は、海の潮を引き寄せて満潮にする力であります。潮干珠の力は、海の潮を干かせて干潮にしてしまう力の珠であります。この珠を使い分けることによって、満潮の状態でも、干潮の状態でも自由自在に表現することができるのであります。この珠とは「言霊(ことだま)」のことであり、「コトバの力」を自由自在に使い分けることによって、私たちは、自分の運命でも、境遇でも自由自在に変化させることができるのであります。欲するものには、「来たれ」と命令し、不要な物、いらないものには断乎として「去れ」と命令すればよいのです。聖経には「仮の相(すがた)に対しては、実相をもって相対せよ」と教えられています。不完全なもの、不幸、災難などに対しては「汝は実在する物にあらず。わが前より消え失せよ」と断乎として命令すればよいのです。この強き信念は聖経を讀誦することによって養われます。谷口雅春先生は、意味を味わいながら讀誦しなさいと教えておられますのは、この為なのであります。 現象には、真理がそのまま現れた「真象(シンショウ)」と、迷いの念が現れた「偽象(ギショウ)」とあることを忘れないでください。どちらにしろ、現象はあらわれたら消えるものであります。はじめに述べました、ローソクの灯のこと、トーチランプのことを、思い出してください。私たちは常によき言葉を口にし、「信徒行持要目」で教えられたように日常生活で実践して、無限向上の道を歩めばよいのであります。 私たち生長の家の同志は、自分の一身一家の幸福・繁栄を念願し、み教えを自己の生活に実践することは当然のことでありますが、ここで止まってはならないのであります。私たちは聖使命菩薩として、「菩提心を起こして己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度(わた)さんと発願修行するもの、即ち誠に菩薩の位に進むものにして、その功徳能く無礙の実相、完全の相(すがた)を生長せしむる基をひらくものなり。」と教えられているのであります。 私たちは、このようなすばらしい自覚をもって、「如意宝珠」という「言霊(ことだま)」を自由自在に駆使して、住吉の世界建設に邁進して行きましょう。 (終わり)
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