懺悔の神示」講義  

仙頭 泰

今回は「懺悔の神示」を学習いたします。今思い出しますのは、谷口雅春先生御夫妻が、はじめて海外御巡錫(昭和三十八年三月)に出かけられ、ニューヨークに行かれた時のことです。キリスト教会で先生の講話がありました。そのとき谷口雅春先生は、聖書を中心にして話をされました。キリスト教会では、イエスは神の子のひとり子であり、他の人々は罪人であるとの説教を日曜礼拝に集まった人々にするのでありました。

このニューヨークの教会では、谷口雅春先生は「みなさんは『神のひとり子』ですよ」と聖書の言葉を引用されて話されたのです。また「主の祈り」の話もされました。「ここには、イエスが 『天にましますわれらの父よ』と呼びかけているでしょう。イエスは『われらの父』と呼びかけているのであって、自分だけの父と呼びかけているのではないのです。みなさんも、神の一人子であって神さまから愛され、大切にされているのですよ。皆さんが生きておられるだけでも、神様は祝福しておられるのです。用のない人、つまらない人は一人もおられないのです。」と縷々聖書にもとづいて人類無罪宣言の話をされました。

聴衆は、今まで牧師から聞いたことのない聖書の講話に感激の涙を流しました。解散した後は、聴衆が感謝の握手をするので大変でした。谷口雅春先生の掌が腫れてしまいました。この夜の二回目の講話が終わり、私達が帰ろうとしたとき、一人の黒人青年が感激を体いっぱいに表現して、今日のドクター・タニグチの話で救われたと涙して語るのでした。この青年は自分が物心ついたときには、黒人として差別をされていたというのです。それでも、彼は懸命に勉強もして、大学もりっぱに卒業をしました。でも就職のときには、白人との差別を感じて世間の不公平に悩むのでした。

その時期に、あちらこちらと教会の門を叩き、自分の悩みを打ち明けて救いを求めるのですが、どの教会に行きましても同じように「十字架を背負って人生を歩むのです。必ず天国に救われます」と云う答えしかもらえませんでした。それは、現実生活の救いにはならず、ますます憂鬱な人生であったのです。彼には、何故自分は生きてゆかねばならないのか、なんのために此の世に生まれてきたのかと、疑問ばかりが湧くのでありました。

この時に彼に人生の解決を与え、光明を与えたのが谷口雅春先生の、人間神の子の話であり、人間地上誕生の意義であり、人生の目標の話であり、人類無罪宣言であり、萬教帰一の真理でありました。彼は、自分もイエスと同じく「神のひとり子であり、神のめぐし子であり」、この世に神の栄光を現すために誕生したのだと、魂の歓喜を得て人生が全く光明化したのでありました。

人々はこの世に生まれて、不遇な人生、運命に出会うとき、どうして私だけがこのような不幸な運命に遭わねばならないのだろうか、過去の業の結果ではないだろうか、何かの罪の結果が今日現れているのだから仕方がないのではないか、などなど人生を暗く考えて落ち込むのであります。自分は罪悪深重の凡夫で、苦しんで人生を送らねばならぬ存在だと信ずる人も出てくるのであります。だからこそ宗教が必要なんだと、強調する人もいるのであります。

 「懺悔の神示」には、この人生の『罪』について、「本来ない」ものであるから、懺悔をすることにより消滅するものであることを、色々な方面からその方法を示され、人間神の子の実相を悟り、迷いを一日も早く消すことが世の苦難を救う唯一の道であると示されています。

はじめに「汝らのうち病める者あらば、わが教えの先達の許に来たりて、祈りを乞い神想観の指導を頼め。わが教えの先達はわがことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒やさん」とあります。

生長の家は、谷口雅春先生が神様のご使命を受けられてこの地上に誕生され、神理を全人類に伝えるべく活動をはじめられためにこの地上に顕現したものであります。「神真理を告げ給う」の御本の中につぎのような御文章があります。

「“わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、それに基づいて思索をし、既に人生の意義を知ることが出来た人もある。しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、“聖なる求め”を放棄している人もある。そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」(同書11頁)

私たちにとっては、このようなあ偉大なる谷口雅春先生を通して神理を学ぶことの出来る機縁を与えられたことを、心から神さまに、そして谷口雅春先生に感謝するものであります。と同時に私たちは、これからも益々謙虚に情熱をもって求道にそして伝道に励んで、神理を自分の生活の得意の分野に展開して、地上に天国を顕現するように活動をしてゆきましょう。この神示に「わが教えの先達」とあるのを、谷口雅春先生ではなく「自分だ」として、人に神理をお伝えするときに、自分が悟って偉くなったつもりで、他人に向かって横柄な態度になり、相手を神の子として礼拝する謙虚さを失うことのないように、お互いに気をつけたいものであります。

 

「神真理を告げ給う」には、神様がさらに次のように述べておられます。

「しかし“本当の教祖”というべき“真理の啓示者”は“実相世界”にある“神”のみなのである。イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』といっているし、谷口雅春も、“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある”といっているのである。」(同書13頁)とあります。私たちは教えを学ぶ生命の兄弟・姉妹として、互いに励まし合いながら謙虚につきあって行きたいものであります。指導者になれば、なるほど、神理の伝道に間違いがないように反省が必要であります。

「真理は汝を自由ならしめん」とキリストは教えました。真理を自覚し得たものは自由自在を得るのでありますから、佛教では「解脱を以て佛となす」というのであります。宗教とは真理を知ることにより、一切の苦悩その他の繋縛から脱して衆生を大自在の境地に導くのものであります。前に述べましたが、今までの宗教は「人間には罪があり、業がある。その罪の意識になやみ、業因の循環があるので、その解決のために宗教があるのである。罪がなかったら宗教はいらないのだ」という人もいるのであります。生長の家の教えでは、「罪は本来ない」と説いているのであります。

神示には「『罪』は本来『暗(ヤミ)』にして、光にあうとき自滅する」とあります。真理の光をあてることが大切なことであります。ところが、今までは罪悪深重の凡夫を救うために、「宗教は出現した」のであると云うのです。この場合「救う」というのは、「罪がなくなる」ということであり、その「罪をなくする」というのです。この神示には「罪は本来無し」と明示してあります。私たちが「罪本来なし」ということが自覚できたときに、病気が罪や業のあらわれである場合には、罪や業が消えると同時に病気も消滅してしまうと教えられています。何故罪や業が消えるかと言えば、それは「本来無い」からであります。

「罪」というものはどういうものであるかと言うと、ツツミ(包み)という語原から来ていると云うのであります。谷口雅春先生は講話の中でつぎのような説明をよくして下さいました。例えばここに懐中時計があるとして、これを光明燦然と輝くところの立派な人間の神性・仏性であるとします。それをハンケチで、包んで隠してしまいます。その光明燦然と輝く神性・仏性を包み隠した状態が「罪」なのであります。このハンケチがあるという意味から言うと、“包んでいるもの”ツツミ(罪)が確かに有ると言ってもよいのでありますが、この「包み」というものが、この中の円満完全な光明燦然たる存在に、染みこんでいるかというと、ちょっとも染みこんでいないのであって、中味の本来輝ける実体は少しも汚れていないし、光も失われていないのであります。唯それが覆い隠されており、包まれているというだけのことが、罪なのであります。

人間の実体は円満完全・清浄なものであり、決して汚れていないということに注目しなければならないので、その例え話として、次のようなお話しも谷口雅春先生はよくしてくださいました。今ここにコップがあって水が入っているとします。この水の中に泥を投げ込むと、するとコップの水がドロドロになって不透明になってしまいます。これを一般の人は、この状態を見て「水が濁った」と言うのであります。

常識的に言うと確かに水が濁ったのでありますが、それは私たちが、五官の眼で見ているからであり、そう見えているだけのことなのです。水は水素と酸素の化合物であって、本来透明な液体であります。水というものは永久に濁らないものであります。「だって濁ったように見えるではないか」と言う人は、五官の感覚で見ているからです。いくら五官の感覚で、水が濁ったように見えても、濁っているのは、水そのものではなくて、泥が濁っているのであります。ここが大切なところで、生長の家では、罪というものは「本来ない」と教えているのであります。泥水から、その泥さへ取りのぞいたら、水はもとの透明な状態になるのであります。

これより、テキスト・谷口雅春先生著「神人に語り給ふ」の「懺悔の神示」のご講義の要点を抜粋せていただき、朗読しながら内容理解をすすめていきます。つぎのように「罪」に関するご説明があります。ここから、始めます。

「それと同じように、人間の正体は、本来、神の生命、佛の生命というものが宿っているから、『本来清浄、濁っていないもの』なのであります。だから人間に『罪』があるのではなく、人間の完全さがツツミ隠されている状態が『罪』というのであります。罪というものが、人間と一体なのではないのです。『水』と『泥』とが永久に一体でないように、『罪』は如何にあろうとも『人間』そのものとは別のものであって、それは人間の完全な神性・佛性というものを自覚しないで、瞼をふさいで光があるのに光を見ないでいる状態、つまり神性・佛性を自覚しないこと、それが『罪』なのであります。生長の家では、このように『罪』を解釈するのであります。」(同書213頁)

聖書の中に、つぎのような話があります。イエスが或る日、途上で、生まれながらの盲目の人に会いました。その時に弟子達が「先生、この人が盲目に生まれたのは誰の罪ですか。自分の罪ですか、それとも親の罪なのですか」と尋ねました。するとイエスは「この生まれつきの盲目は、この人自身の罪でもなければ、親の罪でもない。ただ彼の上に神のみ業のあらわれがためである」と答えられたと言うのであります。そして、唾で泥をつくり、これを盲目の人の目にぬられて「シロアムの池に行って目を洗え」と云われました。すると、この盲目の人は見えるようになったと云うのであります。このお話も谷口雅春先生の御講話の中に出てくる物語であります。

ところで、「神は愛なり」でありますから、神様がご自身の神癒のみ業を或る人の上に実現して見せて、自分の尊さを実証する方便として、或るときまで盲目にして置かれるなどという残酷なことをされる筈はないのであります。人間は神の子であり、はじめから、自性完全円満自由自在のもであります。この本性を自覚するとき、「罪」は本来ないからこそ「本来ない」状態に還元されるのであります。ではつぎに進みます。

「『罪』とは『神性隠蔽』であり、『神性隠蔽』とは、神なる本性を覆い隠していることであります。それが罪(ツツミ)であるから、『人間・神の子』を自覚して、その実相を露堂々とあらわすと、罪が消えることになるというのであります。即ち『観普賢菩薩行法経』にあるとおり、『懺悔せんと欲せば端坐して実相を観ぜよ、衆罪は霜露の如し、慧日よく消除す』であります。この実相を観ずるのが大懺悔で、大々的、根本的に諸罪を滅除するのであります。」(同書214頁)私たちにとって大切なことは、「実相を観ずる」ことであります。「実相を直視する」ことであります。つぎに進みます。

「『観普賢菩薩行法経』には、罪を消す方法が書かれているのであります。釈尊はこの観普賢菩薩行法経をお説きになるときに、『わしは、もう三月したら涅槃に入るぞ』と言われたと書かれています。涅槃に入るとは、この場合は肉体が亡くなくなって、釈尊が霊にお成り遊ばされるという意味でした。すると、弟子が『世尊、如来の滅後に云何(イカン)が衆生、菩薩の心を起し、大乗方等経典を修行し、正念に一實の境涯を思惟せん。云何が無上菩提の心を失はざらん。云何が復当(マタマサ)に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得ん……』と云っておたずね申しあげた。」(同書215頁)このままでは話の内容が難しいので、谷口雅春先生はこれを現代語になおして、つぎのように説明しておられます。

「『お釈迦さん、あなたは三月もしたら死ぬんだったら、生きとる間に教えといて下さい。如来さまがお亡くなりなった後に、どうしたら我々衆生が菩薩の心を起こして、大乗方等の経典を修行して、そして正念をひたすら起して、唯一つ、実相の境涯のみを心に惟うようにできますか。どうしたら、無上のサトリの心を失わずにおられますか。どいう具合にしたら、山へ籠もったり断食したりしないで、煩悩の世界におりながら、五欲の世界におりながら、感覚器官を清浄にし、色々の罪をなくすることができますか』と云って尋ねたのであります。」そこで今度は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということのお話しであります。ではつぎに移ります。

「『煩悩を断ぜずして涅槃を得』と云うことは、中々むつかしいのであります。煩悩というのは、美味しいものを食べたいとか、美しいものを見たいとか、好きな人に会いたいとか、何とか色々慾があるのを言うのであります。そのほかにも人間には酒を呑みたいとか、煙草を喫みたいとか色々の慾があるのです。こうした煩悩を断ち切らないでおって、それで悟りを開いた状態に到達するにはどうしたらよいか、という訳であります。生長の家では煩悩を無理に断ち切れと言わないのです。」(同書216頁)ここでの反省は、私たちは他人から余り干渉されると、例え善いことであっても反発をしたくなる変な傾向があります。

「酒やタバコなど、“止めなさい”といわれると、なかなかそれが止まらないのであります。縛られるような気になり窮屈になるから、その心の窮屈さをごまかすために、さらに酒やタバコという麻酔剤を必要とするのであります。併し、悟りの境涯に入ると、自然と、タバコも止み、酒も止み、生活が正しい道にのるようになるのであります。」(同書217頁)

「観普賢菩薩行法経」は、釈尊の最後の遺言みたいな経である。『もう三月したらわしは死ぬのだ』と云う予告をされた時に、説かれたのであることは、前に学習しました。谷口雅春先生は「これくらい佛教の極地が説かれているものは無い」といわれました。では次ぎに移ります。「『普賢』即ち『普ねく賢い』という意味で、『普遍的に、何処にでも普く充ち満ちているところの智慧』そのものが、普賢菩薩であります。だからその普遍の智慧が吾々にも宿っている。吾々自身が普賢である、宇宙に満つる智慧が肉体として此処に現れているのが私たちであるわけです。」(219頁)

「だから私たちのこの身体は、宇宙に満つる智慧そのものの身であって、物質身ではない。物質の体ではないから黴菌に食われたり、いろいろの禍いを受けたりするということは無い訳であります。即ちこの観では自身を智慧身であるとして其の相を観ずるので、その観の功徳はどれほどであるかというと、観普賢菩薩行法経には、『この観の功徳は諸々の障礙を除いて上妙の色を見る』と書かれてあるのであります。」(同書219頁)つづいて拝読します。

「色々な障りを除いて、極めて優れた妙なる波動の世界を見るというのであります。色(シキ)いうのはラジオみたいに、波動によって形をあらわしているものを称するのであります。即ち心の波によって或る姿を現しているものを全て色(シキ)という訳で、吾々の肉体も一種の色身(シキシン)であります。『昼夜六時に十方の佛を礼して懺悔の法を行ぜよ。』『昼夜六時――朝晩六時にですね。十方の佛様を拝め、そして懺悔をせよ。』こう釈尊が言われた。この十方世界の佛様を礼拝することが大切であります。これは私達の神想観の行法に『遙々と目路の限り眺むるに十方世界悉く神なり、吾れ十方世界を礼拝す。十方世界の一切のもの有難うございます』と念ずるのと同じことであります。」(同書220頁)神想観については、讃嘆行であり、感謝行であり、礼拝行であると言われた言葉を思いだします。次ぎに進みます。

「懺悔とは、狭い意味で云えば、『ああ、私は悪いんです、すみません』というのも懺悔でありますが、もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して実相に向き変る事であります。……」(同書220頁)つづいて、凡ての人を観るに『私はすでに悟りをひらいて佛であるが、あいつはまだ迷っている』といって、衆生を軽蔑するようなことではいけないと説明してあります。

「次には、『諸々の衆生に於いて、みんな父母の思いの如くせよ』――『凡ての生きとし生きるものは、みんな私の父母であると思え』と釈尊は教えられたのです。一切の衆生を尊敬しなければいかんのです。人類が、互いに相手を父母と思って尊敬し、親に仕える思いを起こしておったら戦争なんかありゃしないのですね。『諸々の衆生に於いて、父母の思いを致し』でなくて敵を思い起こしたりするから戦争するのです。互いに父母と思って愛する思いを起こしたら戦争の起こりようがないのです。」(同書220頁)このように谷口雅春先生は、戦争についての思いを述べておられるのです。

全世界の人々が『みんな神の子・佛の子である』ことを自覚して、人々の実相を礼拝し合い、讃嘆し合い、感謝し合い、助け合うようになることの素晴らしさをつよく感じます。「常不軽い菩薩行」の実践はすばらしいと信じます。私たちが、ただ単に父母だけでなく、人類みんなが互いに相手を父母の如く思って尊敬し、親に仕える思いを起こし、愛する思いを起こしたら戦争なども起こりようがない。顛倒の思いより諸々の不幸災難が起こるということが分かります。ここで云う「思い」、心というものは、「迷いの心」のことです。次ぎに進みます。

「この『心』というのは、『迷いの心』であります。迷いの心というのは、よく『病気は心の迷いより起こる』と言いますね。『君は恐れるからいかんのであって、恐れる心を捨てなさい』とそう言われると、恐れる心を捨てようと思っても、なかなか捨てられないで、やっぱり恐ろしい。そしてどうしても、その恐怖心を捨てる訳には行かない。『恐れる心が病気に現れるんだ』と思えば思うほど、『恐れること』そのことが恐ろしくなり、その恐れる心を捨てようと思うのに、やっぱり恐れるから捨てられないで、そのジレンマに陥って、益々恐れて病気が益々重くなることもあります。その恐れる心を恐れて、それを捨てようにも捨てられないところに連鎖反応的に恐怖心が起って、困る人が往々にあります。」(同書221頁)全くこの通りで、地獄の中に落ち込んだ心境になり自暴自棄になることがあるのであります。では一体どうすればそのような状態から脱出するkとが出来るだろうかということです。

「そういう場合には、『心を観ずるに心なし』と、捨てなければならないような『恐れる心』もないのである、とこう『此の心をどうしようか』と心に引っかかる心をも断ち切るんですね。そこが大切なところなのであります。『恐れる心』というものがあると思って捨てよう思うから其の『心』にひっかかっていかんのです。『悪』というものがあると思って捨てようと思うから『悪』にひっかかって捨てられん。」(同書221頁)ない、ないずくしでありますね。次ぎに進みます。

「病気でも『病気を恐れる心を捨てなさい』と言うと、病気はあると思って掴んで、それを『恐れるな』と言っても、なかなかそれを恐れない訳に行かんのです。『病気はない』と、こう捨てるんですね。『その病気を恐れる心もない』と捨てるのでね。」(同書222頁)私達は如意宝珠の玉を持っていると教えられています。この如意宝珠には潮満珠と潮干珠の二種類あるといわれます。潮満珠を投げると潮が満ちて満潮となるように、自分欲するものが成就するというのであります。潮干珠をなげますと、潮がどんどんと引いてゆくように、自分の欲しないものが目の前から消えていくというのであります。この珠とは言霊であります。言葉には不思議な力があり、欲するもの好ましきもの自ずから集まり来たり、欲せざるもの、好ましきものからざるものは自ずから、去ってゆくのであります。消えてなくなるのであります。このことを思い出すのであります。次ぎに移りましょう。

「それでこの経に書いてあるように『心を観ずるに心なし』と観ずる。恐れる心なんていうものはないのであると捨ててしまうのです。これは腹立つ心でも同じことです。腹立つ心があるのであると思いながら、腹立たんようにと思っても、腹立つ心は止まないのであって、『あいつ、クソいまいましい』と思っても、癇癪が起こって来るのであって、どうしても癇癪をなくすることができない。」(同書222頁)とこういうわけであります。

谷口雅春先生はよくつぎのような話をなさいました。タバコの煙で目の前がモヤモヤして鬱陶しいからといって、煙の出ているタバコを持った手を一生懸命にふっても目の前のモヤモヤは無くならないどころか、ますますモヤモヤが増えてくるのです。しからばどうすればよいか、タバコを持っていない手でもって、目の前のモヤモヤを払えばたちどころにそのモヤモヤは消えてなくなるのであります。非常に示唆にとんだ話です。それでは次を読んでみましょう。

「だから『生命の実相』にも書いてあるように、『まこと“怨み心”をもってしては、“怨み”を解くことは出来ない。“怨みなき心”をもって来たとき、はじめて怨みを解くことができる』と書かれているのですね。“怨んでいる其の同じ心”で“怨まない”と頑張ってみても、怨みを解くことは出来ないのです。“怨みなき心”を持って来たら、ひとりでに怨み心がなくなるのであります。腹立つ心を止めようと思ったら、“腹立つ心”で“腹立つ心”をおさえようと思っても駄目だから、“腹たたん心”を自分の実相から出して来たらよいのです。だから、この“腹立っている心”というものは、“ニセモノの心”で、わしの心じゃないんだと先ず知るのですね。そして『わたしの心は“佛の心”じゃもの、“腹立つ心”なんていうものはニセものだ。よその奴が、脳髄っていうオートメイション装置が腹立てとる。わしは知らんよ』というように、そんな心を自分から放してしまって、『そんなものはありはしないんだ!』と捨ててしまう。そうすると、腹立っていても、直にスーッと“腹立つ思い”は消えてしまうのです。」(同書223頁)

谷口雅春先生は、さらにつぎのように説明しておられます。「脳髄の思いなんていうものは、一寸酒を飲んでも、すぐに変わるものであって、こんな心は常住不断の心じゃないのであって、そんな心というものは本来ないのであります。だから観普賢菩薩行法経には『心を観ずるに心なし、法、法のなかに住せず』と書かれているのであります。この『法』というのは、『世の中のもの』というような意味で、現象のことです。病気なら病気の姿が現象として現れているけれども、その『現象は現象の中に住せず』です。というのは、現象として、病気がここに存在するように見えても、實はここに存在するのではない。心のフィルムにつかまれていて、それが『時間・空間』の映写幕に映っているんです。吾々はそれを見て、『病気が此処にある』と心で引っかかるのです。それを『無い』と放してしまうのが懺悔であるというのであります。」(同書223頁)私達は「本来ないもの」を、「無いと云ったら、絶対に無いのだ」と断乎として、自分自身に言い聞かせることが如何に大切な事であるかよく分かるのであります。では、つぎに進みます。

「懺悔というのは、洗い清めるということであって、悪いものを放してしまう。心から放してしまえば、『無いもの』は無いと宇宙の浄化作用で消える。それが懺悔であります。『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず』であって迷える心も現象界もないのであって、それをアルと見るのは『煩悩の想いより起こる』であります。煩悩というのは『サカサマ』であって、アルモノを無いと見、ナイモノを有ると見るのです。そういう想いはどうして起こるかというと、『斯くの如き想は妄想より起こる、空中の風の依止(エシ)する処なきが如し』とあります。空中に風が吹いて居っても、それが何処から起こって、何処へ行って消えるかと言ってもとらえようがないようなものである。風というものは突如として起こって、起こってからは方向の予知できるが、何物にも支えられないで消えてしまう。風はあるように思っても、把むことはできない。」(同書224頁)さらに続いて拝読いたします。

「風は吹いている時だけあって、吹かなくなるとない。そのないものをアルと思うのが妄想である。その妄想を吹き払うのが懺悔である。かくの如き懺悔には色々の段階の懺悔があるが、『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず、諸法は解脱なり、滅諦なり』と観ずる懺悔が最も大なる懺悔であるというのです。」(同書224頁)この風の例えは、「アル」と「ナイ」とを理解するのに大変分かり易い話であります。ではさらに続けてさきを拝読いたします。

「一切の現象を本来無い存在である、非存在である、本来寂静であると観ずる−このようなごとき想いを大懺悔と名付けるのです。いろいろなものは『仮りにある』けれども、そんな現象は『本来無い』のである、映画の中の人物の誕生のように、始めから生まれたことも滅することも無いのである――そういう悟りの想いを起こすのを大懺悔となづけ、荘厳懺悔となづけ、無罪相懺悔である。人間本来無罪の相を観ずる懺悔である。罪は『本来無い』という真理によって洗い浄める懺悔である。この懺悔を『破壊心識(ハエシンシキ)』と名づくという。」(同書225頁)

聖経「甘露の法雨」には、「罪」の項で、天使に対して天の童子が「罪は実在なりや?」と質問しています。ここでも、神の創造の円満完全なることが明示されています。そして、罪・病・死などは不完全なものであるから「実在の仮面」をかぶって、どんなに実在ぶっていても、それは悲実在であり、虚妄であると示されています。そして「われも言葉にて『生長の家の歌』を書かしめ、言葉の力にて罪の本質を暴露して、罪をして本来の無に帰せしむ。」とあります。ですから「わが言葉を読むもの」は実在の実相を知り、生命の実相を知るから、一切の罪も一切の病も消滅して、死を越えて永遠に生きんと教えられています。なんと有り難いことでしょう。

谷口雅春先生は、更につぎのように繰り返し重ねて教えてくださっているのであります。「『破壊心識(ハエシンシキ)』とは、掴んでいた心を破ってしまって、『心を観ずるに心無し』と観ずるところの懺悔であって、この懺悔を行ずる者は『心身清浄にして法の中に住せざること、猶し流るる水の如し、無量の勝方便(ショウホウベン)は実相を思う依り得』であって、現象にひっかからないから、心が自由であって、無量の勝れたる方便というものは、実相を観ずるところから出てくるのである。」と云うのであります。「ところが、多くの人は『一切の業障界(ゴッショウカイ)は、皆妄想より生ず』であって、業があるとか、業の障りによって色々の苦悩が出て来、業の流転で過去の業で我々が苦しんでおらんならんと言うけれども、そんなことはないのである。業もなければ、罪もない。そういうものがあるという妄想を掴んでいる間だけ、業障界は存在するのであるから、妄想を消すのには実相を観ずればよいのです。其処で次のような偈があるのです。『もし懺悔せんと欲せば端坐して実相を念へ。衆罪は霜露のごとし、慧日よ消除す』。」(同書225頁)さらに続けて拝読します。

「衆罪すなわち諸々の罪は、霜や露のようなものであって、『慧日』即ち智慧の太陽が照らしたら、どんな霜でも露でもみんなよく消えてしまう。それだから『懺悔しようと思ったならば、実相を観ぜよ。実相を観じたならば、自ずから罪というものは消えてしまうのである』と、釈尊は教えられたのであります。しかし、罪があったならば、それを神の前に、または教えの先輩の前に、告白するということも、亦必要であります。“罪はないのだから”と高をくくって悪いことをしながら、“罪はないのだ”と言っているのは、罪を罪としてつかんでおって、暴露をおそれて放たないものである。(同書226頁)

「たとえば、泥棒をして、泥棒しながらですね。『罪なんて無いんだよ、これは良いことをしている。神の子のすることに一つも悪いことは無い』なんて言っていると、『泥棒する』ことを『良い』として、心でそれを肯定して支えているから、それは消えないということになるのであります。これに反して、『それは済みませんでした。私が悪うございました』と、こうなると、今まで『悪くない』と、しっかり掴んで肯定していたところの罪を捨てて仕舞うことになるから、『ああ、すみません』と懺悔の心を起こすことによって罪が消えるのであります。だから『罪を消す』ためには、この『すみません』が必要になるのです。多くの病気でも、『今まで私のしたり、思ったりしたことは間違いでした。済みません』とあやまりきる心になることによって治るのです。『人間は神の子だから、“済みません”なんてあやまらなければならぬような悪いことを犯したことは一度もない』なんて言うのは間違いであって、これでは罪は消えないのです。」(同書226頁)私達の生活で、自己反省して「すみません」と謝ることが、罪を消すことに大変大切なことであると、しみじみと感じます。「我(ガ)」の強いということはどんなに間違いを起こすか大いに反省させられます。ではまた先に進みます。

「わたしたちは、神の子だから、“神の子たる実相”が顕れるに従って、それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。きれいな立派な漆の塗物なんかには、一寸ホコリでもつくと直ぐ分かるでしょう。穢い絨毯の上にホコリがつもっていても分かりはしない。それと同じく、自分の心が浄まれば浄まるほど、『ああ、穢い』ということが分かるのであります。だから、『ああ、済みません』と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、そういうときは、過去より自分は一段高まったということになっているのであります。それですから、人を憎んだり恨んだりしとった人が、『ああ、済みません、私が悪うございました』と、あやまり切る気持になりますと、病気がさっと治ったりします。」(同書227頁)過去を詫びる懺悔の心が起こるとき周囲の環境が変化することを知ることができます。現象の世界は「観ずる通りに現れる」という法則に支配されていることが深く理解されます。私達は「心の法則」を使用して自由自在に天翔る生活をしてゆきましょう。ではつぎに進みます。

「病気になっている人は、親を恨んだり夫を恨んだり、人々と争ったり、色々やっとるですね。それを皆スッカリ懺悔して、『済みません。恨むのじゃなかった。立ち向かう人の心は鏡なりだ。私の心の通りの姿があの人の姿に現れたのだ。ああ、私が悪かった』というので、自分が『ああ、済みません』と思うと、今迄の環境がスーッと変わって来て、其処に住みよい世界が現れてくるのです。我々はいろいろな環境に置かれておりますけれども、その環境というものは一つの学校のようなものであります。各人の環境というものは、それぞれその人が一番魂が進歩するのに必要な環境に置かれている訳であります。それで苦しい環境にあるときには、その人の魂が苦しみによって鍛えられなければならない様な状態になっているのです。」(同書228頁)

私達はここにありますように、どうして自分にはこんな苦しい環境が出てくるのだろうと、人生を呪いたくなることもあるでしょうが、高い立場から見ればそれは、自分の魂を進歩させるために必要なことであったのだと後で気がつくことが多いのです。ですから私達は、どんなことが起ころうとも「私の人生は絶対によくなるより仕方がないのである。」と、断乎として自分自身を激励して人生の難関と見えるものを乗り越えてゆきましょう。

谷口雅春先生は、自動車が道路の上を走ることが出来るのも、洋服を縫うことが出来るのも、摩擦があるからですよと話をしてくださいました。味わい深いものがあります。また、極楽浄土は蓮の華の上に座禅を組んで瞑想に耽っている佛さまを想像する人があるかも知れないが、神想観の三十分でも辛抱出来なくてジーッと蓮の華に座することは苦痛で地獄でしょうねと言って聴衆を爆笑させられたことがありました。ですから現象は変化しながら無限向上するので素晴らしいものであることを教えてくださったのです。自然界も春夏秋冬と変化しながら発展して行くものです。では次ぎに進みます。

「人をぶん殴るような尖った心を起こしていると、自分もぶん殴られたりしますね。そしてぶん殴られることによって、なるほど自分が尖った心を起こしていると、こんな痛い目をしなければならないのかと云うことが分かるのであります。それによってその環境を、自己反省のための鏡として、『ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ』という気持ちになり、一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して環境がスーッと変わるのであります。」(同書228頁)

「立ち向かう人の姿は、鏡なり。おのが姿をうつしてや見ん」という言葉もあります。「環境は心の影」とも云われます。私達は、人間の本質を正しく教えられ学んでいます。この人生学校に入学することができ、色々なことを学んで魂の向上を目指しています。私達は生命の兄弟姉妹として、おたがいに励まし合い、助け合って、無限向上の道を歩みつづけましょう。神様が「汝ひとりならば、われとともに二人と思え。汝二人ならば、われとともに三人なりと思え」とおっしゃっておられます。大いなる神の御手に支えられ護られて前進・前進・また前進で力強く、みこころの天になる世界をこの地上に顕現すべく活動を続けてゆきましょう。「われ祈れば、天地応え、われ動けば宇宙動く」です。私達は人生を神さまと共に力強く歩む逞しき神の子です。神様の祝福が天降りますようにお祈りいたします。

(終わり)        「学ぶ誌」・平成 19 年 1,2 月掲載

              



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