ロスよりブラジルへ
 

  仙頭 泰

 

 只今リマを朝の八時四十五分に出発してブラジルに向かって、ブラニフ航空会社のダグラスDC−7Cで飛んでいます。眼の下にはチチカカ湖やイリマニの高峰が眼の前に聳えています。この飛行機は高度をあげても呼吸が苦しくなりませんが、クスコに行きました時は呼吸が苦しくなり、気分も悪くなって、びっくりしました。高山病と云うのになるのだそうです。
 さてペルーに於ける日程に関しては左の通りでした。

○ 六月一日
 ロスアンヂェルスを出発しました私達一行四日人は途中メキシコシテイ―に一服しまして、真夜中に出発して、一日の朝七時少し前にペルーのリマ市に安着しました。空港には二百名からの人々が出迎えて下さっていました。すぐに車にて、約三十分間程の距離にあるカンツリー・クラブという別荘などもあるといわれる静かな場所にあるホテルに宿泊することになりました。

 昨夜は飛行機で一睡も出来ませんでしたので、今日の休憩は体の調子を整えるのに役立ちました。
 夜の八時から九時半までは、ペルー新報社の講堂で在留日本人の婦人会などの要請もあって、徳久局長の話が行われました。ラジオ放送で連絡をしましたが、急のことなので集まって来た人達は五十名位でした。

○ 六月二日
 こちらはもう冬に入っているので、カラリと晴れた日々はないとのことでした。その言葉を裏書するかのごとくに何時の間にか、ボーッと夜が明けました。そしてドンヨリとしていました。ホテルで朝食をするのに朝の七時では早すぎるとのことで、ボーイの言うことには、「朝早く起きて働くのは貧乏人で、金持ちの人は十時頃起きて来て朝ご飯を食べる癖がある」と教えてくれました。私達は成程そんなこともあるのかなと思いました。
 
 この町の庶民の家には、屋根らしきものがありませんし、全くない家も沢山ありました。この町では雨が降らないのが相場になっているので、それに強い風が吹くわけでもなく、冬が来たからといっても、何時来て何時去ったのか、ボヤーッとしている人には分からない位ですから、年中冬物で通す人もあるとのことで、まことに暮らし易いので、天井のような面倒なものは作らないで、周囲に囲いだけをして生活している人もあるのです。
 
 「蛍の光、窓の雪」ではありませんが、天井のない家の部屋で姉妹が勉強している姿を見ましたが、何か胸のしめられる思いでした。きっと月の光でものを考える時もあうのだろうと−。
 この国では上の役にある人程、わいろを沢山貰うので、下になる程分け前が少なくなるのですよと、話をしてくれた人もありました。とにかく貧富の差の甚だしい国であると感じたしだいです。

 さて本日は午前十時から天野芳太郎さんといわれるペルー国から勲章まで授けられて、そのペルー国に対する功績を称えられておられる方が、博物館の案内をして下さいました。この方はインカの研究では第一人者の人ですので、博物館を見学される谷口雅春先生ご夫妻も大変楽しそうでした。
 
 午後は三時から五時半まで、ペルー新報社の三階の講堂に於いて谷口雅春先生の講演会が行われました。地元の人々の強い要望によって輝子奥様もお話をしていただくことになり、みんな大喜びを致しました。この講堂は八百名の椅子席があり、大入り満員でした。

 終わりましてから宿舎に帰られ、改めて午後七時から八時半まで國華酒店といわれる中華料理店で谷口雅春先生輝子奥様をお囲みしての歓迎晩餐会が行われました。約二百五十名程の方々が出席されました。西領事夫妻をはじめ日本人会やら婦人会の幹部の方々、各県人会の会長さん達、谷口先生からも面白いお話があったりして、なごやかな晩餐会でした。

 食事の途中であちらこちらから何回となく「サルウ―」と云う声がかかっては、ジュースの乾杯を致しました。「サルウ―」とは相手の人の健康を祝して大いに敬意を表した言葉だそうですが、私には「猿」の方に聞こえて仕方がありませんでした。明朝は早くクスコに出発しますので、来会者の皆さんにはゆっくりするように頼まれて先生ご夫妻は帰泊されました。

○ 六月三日
 午前六時に飛行場に到着しました。六時三十分にはクスコに行く飛行機が出発します。
この飛行場というのは以前は国際線に使用していましたが、ジェット機になってからは狭いので今では専ら国内線のみに使用されている飛行場です。飛行場にある立派な建物は、昔はターミナルとして使用されていましたが、今は国務省で使用して、その横にある格納庫を一寸改造したものが、国内線の営業所になっています。

 今朝は小雨で霧もあるようですが、クスコでは、「これが大雨の部類に入りますね」と大笑いをしました。天井のない人々はどうしているのでしょうかと、いささか心配でした。約二時間位の飛行時間でクスコに到着する予定です。

 クスコは海抜三千四百メートル位とかで、ここに行くまでに飛行機が高度をとり、空気の稀薄になって呼吸の苦しくなるのを助けるために酸素のゴム管を各自、口にくわえさせられましたのには一寸驚きました。病人の酸素吸入なら話が分かるのですが−。
 
 クスコに近くなりますと、本当に呼吸に困難を感じ、宿舎に落ちついてからも頭がクラッとして気持ちが悪く、一行十二名、総員夜は早々に寝床に入りました。

 この日は昼過ぎの二時頃から自動車に乗りまして、クスコの町の裏にあたる山に登りました。そこには昔の石垣がありまして城跡ですが、実にピッチりとあわされて大きな岩と岩との間には剃刀の刃が一枚も入れられない程のものでした。

 この時代は今から二千年以上も前のことで、しかもこの地方の人達は金属類を使用していなかったといわれています。多分、固い石で、石を切り刻んで造ったものに違いないだろうと云われていました。又山の頂上に石垣の間から美しい泉が流れ出るようにしてありますが、未だに何故このように山の頂上の石垣の間から水が泉の如く流れ出るかは謎になっているそうであります。

 山に残る数々の遺跡見学の後に、町の市場にやってきました。そしたらインカの子孫の人々があちらこちらと数多くたむろして地面に坐り込んで、ある人は品物を売り、ある人は道端の食糧品を買って食べていたりして、何か悲惨な気持ちでした。

 スペインの占領政策としてスペイン語のみを教え、土着の言葉を使用させないようにし、又インカ帝国時代の人々の合言葉は「ウソを云うな。怠けるな。盗むな」の三つの言葉が標語になっていましたが、それを現在のような状態にまでしたのですから、教育の力は実に大きなものがあります。
 谷口雅春先生も、「人間の自覚如何によっては、あの偉大な民族の子孫もこの様になるんだね」と話をして下さいました。

○ 六月四日
今日はインカ帝国時代の城跡の一つであるマチュピチュを見学に行くことになっています。朝七時半頃宿舎を出かけました。昨日見物しました市場の中に車がとまり、外に出てみたところが小さな駅があり、ここからマチュピチュ行きの汽車が出ることになっており、単線運転ですが約三時間位は汽車に揺られて行くのです。

遺跡にのぼる為にプモンテ・ルイナス駅で下車して、私達は十二人乗りの小さなバス、そして小型トラックに分乗して電光形に屈折する断崖に造られた道を十三ケ所も、クネクネと約八キロも這い上がって、海抜二千百五十メートルもある目的のマチュピチュの遺跡につきました。

                                        (終わり)


 

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